【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2部 刃(やいば)の手順 第8章 クレールの揺れ

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 恐怖政治のさなか、パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で働く青年ジャンは、地区会所に勤める父を持つ娘クレールと出会う。言葉ではなく縫い目で惹かれ合った二人の恋は、噂と視線が支配する時代の網に絡め取られていく。

 クレールの父ドゥルマは、革命の任務に誇りを抱いたまま、娘を守るために“制度の内側”で恋人たちの逃走路を開く。だがその小さな例外は「平等」の名のもとに断罪され、父はすべてを背負って断頭台へ向かう。

 自由とは、平等とは、そして愛とは何だったのか。答えは出ないまま、問いだけが夜明けの空に漂っていた。

主な登場人物

開く

ジャン(普段名)/アルマン(真名)
パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で下働きをする青年。元貴族の家系である出自を隠して暮らしている。

クレール
市民を取り締まる地区会所の監視係の父を持つ。秩序を信じたいが、恋によって「正しさ」の輪郭が変わっていく。

ドゥルマ
クレールの父。地区会所の監視係(治安担当)。任務への誇りを捨てず、家庭では厳格で寡黙。

ラクロワ
地区会所の同僚で急進派。正義を「例外の排除」として理解し、平等の名で人を追い詰める。

ルノー親方
ジャンが務める仕立て屋の親方。会所の発注と巡回の気配に怯えながらも、店と職人の矜持を手放さない。

ニコラ
仕立て屋の徒弟。飢えと恐怖から口が先に動き、ジャンの「違い」を面白がって噂の火種を作る。

ブリュノー夫人
パレ・ロワイヤルの古参。過去の匂いに気づく目を持つ。

ガスパール
御者(馬車の車夫)で、門と荷車の流れを知りつくしている男。

ポワリエ夫妻
街道沿いの宿の夫婦。問いを増やさず、沈黙で匿う。

マドレーヌ
フランス南部の田舎町に住む縫い手。

前回のストーリー

第2部 刃(やいば)の手順

第8章 クレールの揺れ

沈黙が増える朝

 朝、彼女は卓上のパンを細く切り、噛む回数を増やした。パンが胃の中に落ちていくよりも先に、まずは心を落ち着けようと思ったからだ。だが、どれだけ嚙んでいても、彼女の心の中に落ち着きはやってこない。増えるのは沈黙だけだ。

 父は椅子に腰を下ろし、やはり静かにパンを噛んでいる。

「今日は早いな」

 父はそれだけを言い、皿へ視線を落とした。クレールは返事が遅れないように、声を整え答える。

「はい。会所へ行きます」

 整えた声が、まるで嘘の準備のように感じられる。父は頷くこともなく、朝の食卓には沈黙が続く。沈黙が長ければ長いほど、父の胸の中で何かが動いていると疑い、クレールはいっそう不安になっていた。

 家を出ると、外の空気はまだ湿っていた。石畳の溝には朝方まで降っていた雨水が残り、靴底がかすかに吸い付く。回廊の硝子は朝の光を受けて白く明るいが、肌に刺す空気はとても冷たかった。

 会所の門をくぐると、匂いが変わる。紙と汗と、湿った木の匂いが混じり合い、息を吸うだけで喉が乾く。窓口の前には、すでに列ができていた。

 その朝の列は静かだった。静かだから安全とは限らない。静かな列ほど、人々の目は鋭く、ほんの少しの綻びをも見逃すまいと、常に何かを探している。

 クレールは帳面を開き、札の番号を指で追った。指が震えないように、爪の先を机の縁へそっと押し当てた。押し当てる癖が、手袋の縫い目を押さえる癖に似ていることに気づき、彼女はすぐに指を離した。

例外を作らない助け方

「次の方」

 声を出すと、胸の奥の冷えが少しだけ薄まる。クレールの前には籠を抱えたひとりの女が現れた。頬がこけ、髪が乱れ、唇が乾いている。女は札を差し出そうとして、途中で止めた。

「あの……、これ……、昨日の……」

 その女は絞り出すような声でそう言うと、口ごもる。

「残念ですが、昨日の札では、受け取れません」

 クレールが言葉を返した瞬間、女の目に見る見るうちに涙が溜まっていった。その溜まった涙がこぼれ落ちる前に、クレールは大きく心呼吸をする。恐らく息苦しいのは目の前にいる女のほうなのに、なぜか自分の胸が苦しくなった。

「昨日、巡回が来て、外へ出るなって」

 女は言い、声が裏返りかけた。

「日にちが遅れたら札が無効になるなんて、誰も教えてくれなかったから……」

 言い終える前に、女の頬に大粒の涙が伝った。クレールは女が手にしている札の端をつまみ、番号を確かめた。たしかに番号は正しく、正規の札であることは間違いない。そこにあるのは手順の問題だけだった。それぞれに正しさが存在するとき、負けるのはいつも、社会的権力を持たない弱い者のほうである。

「委員会へ確認を……」

 彼女はそう言いかけて、やめた。確認は紙を増やすだけだ。ここで時間をかければ列は動かない。動かない列は、いずれどこからか暴れ出すだろう。女の背後では誰かが舌打ちをする音が聞こえた。その舌打ちが、空腹にイラつく人間たちに伝染するのは一瞬だ。

「子どもが、熱を出していて……」

 女はすがるようにクレールをまっすぐに見つめ、震えていた。

「お願いします……、少しだけでも……」

 札のない者への“少しだけ”の施しは、立派な例外になってしまう。例外は“平等”のもとでは鋭い刃を入口にもなり得る。クレールは父の声を思い出していた。自分の行動ががどう見られるか。だが、傍からどう見られるかを考えていては、すべてにおいて手遅れになる。

 彼女の視線は瞬時に棚の陰に置かれた小袋に向けられた。予備の配給棚だ。あの予備品は不足の穴を塞ぐためにある。だが、予備を動かすには鍵が必要で、その鍵は監視係の腰にある。クレールは唇を噛み、ふたたび女の手に視線を落とした。か細い腕に、指先は荒れている。

「列の後ろへ回ってください」

 彼女は小声で言った。

「予備の棚を確認してきます。……順番がきたら、もう一度、ここへ」

 女は涙を拭くこともなく、藁をもつかむように頷いた。クレールは立ち上がり、窓口の奥へ回った。廊下の空気はさらに乾き、木靴の音が硬く響く。響く音が大きいほど、誰かの目がこちらを向く気がした。奥の机では、別の係が札を束ねていた。札の束は、人の暮らしを束ねているように見える。その束ねる手が慣れている者ほど、束の中の人々のことが見えていない。

「クレール、窓口が止まっているわ」

 同僚の女が言い、口元を引き締めた。引き締めた口元はけして親切の物言いではない。例外が刃を呼ぶことへの忠告だ。

「止めていない」

 クレールは言った。

「止まりそうだったから、支えただけよ」

「支えるなら、ちゃんと帳面に残すことね。残らない支えは良くない噂になるから」

 同僚の女は小声で耳打ちをして、周囲の目を気にしていた。

ーー噂になる。

 その言葉が、クレールの胸の奥に冷たい糸を通す。ひとたび走り出した噂は、じきに会所の内側へ落ちる。そしてその噂は、落ちたその場所で誰かが完璧な正義の形へと仕立てる。

 監視係の割り当て表は、奥の壁に貼られていた。線が引かれ、時間が並び、門の名が並ぶ。並ぶ線は秩序に見える。だが線の上に立つのは、いつも生身の人間だ。彼女はその中に父の名を必死で探した。

 いつもは見つけると胸が痛むのに、今はそれでも探さなければならない。父がどこにいるかを知ることが、唯一の救いになる可能性を持っている。

 ちょうど今の時間、父の任務は空白だった。空白であることは、なにも休みというわけではない。誰にも明かされていない、予定表では見えない任務を意味していた。表に見えない仕事ほど、危うい。そのときクレールの背後で椅子を引く音がした。

「ここにいたか」

 ドゥルマが立っていた。いつ戻ったのかは分からない。

「窓口で、揉めているの」

 クレールは救いを求めるように、父に言った。

「女の人が、昨日の札を持ってきて……」

「手順は手順だ」

 父は彼女の言葉を最後まで聞かずに答えた。その言葉は正しい。だが彼女は、言葉を続けた。

「でも、女の人は泣いていました」

 クレールはぎゅっと指先を握りしめた。

「泣くことしかできない人が、います……」

 父の目の奥の光がわずかに揺れたように見えた。揺れたのは彼の思想ではない。心の動きを悟られまいとする彼の防御だ。

「泣き声は、列を荒らすだけだ」

 父は、廊下の先にある窓口のほうを見た。

「荒れれば、巡回の手間が増える。門の見張りも厳しくしなるんだ」

 いつもの言葉だった。けれども彼女は、今日の父のその言葉の裏には何か別の意志を感じていた。父が門の目を気にするのは、共和国のためだけではない。門の目が厳しくなれば、娘が門を越えられなくなるかも知れなき。その未来を、父は胸の奥で量り始めている。

「いいか、静かにさせるんだ」

 父は続けた。

「助けたいのなら、静かに、だ」

「静かに……」

 クレールは繰り返しながら父の目を見た。父は彼女の肩越しに窓口の列を見ている。列の中で誰が先に崩れるかを、彼は目で数えている。数える目は冷たい。冷たいその目は秩序を守ろうとする者の目だった。それが彼の誇りなのだ。

「とにかく、泣いている者を目立たせるんじゃない」

 父は言う。

「目立てば、誰かが正義を拾う。拾った正義は例外を許さないからな」

 その言葉は、娘への忠告でもある。クレールは胸が痛んだ。彼女が窓口へ戻ると、まだ近くに女は立っていた。列の後ろに回ってはいなかった。そこから離れれば、自分の順番が二度と回ってこないのではないかと考えると、その場を離れられなかったのだ。

「こちらへ」

 クレールは小声で女を招き寄せた。

「札の書き換えの申請を」

 彼女は棚から薄い紙片を一枚取り出し、女の札に重ねた。ただ重ねただけだ。印は押さない。いや、押すことはできない。印は父の鍵がないと動かないからだ。それでもこの手順で紙を重ねれば、列の者たちには正当な手順に見えるだろうとクレールは考えた。

 背後で男が身を乗り出した。男の目は鋭い。彼は手順の穴を探している。

「次はあなたです」

 クレールは男に言い、男の視線を女から逸らした。男は不満を飲み込み、手に持った籠の紐を握り直す。背後の男の視線に怯えながら、女は配給の袋を受け取った。

「ありがとう」

 女は唇を震わせながら礼を言い、安堵の表情を浮かべた。クレールは黙って頷き、次の番号を呼んだ。番号を呼ぶ声が、少しだけ軽くなる。

風向きが変わる決意の兆し

 仕事がひと区切りすると、クレールは裏口から、パレ・ロワイヤル回廊へ向かった。空が少しだけ明るくなり、硝子が橙を薄く映す。その色が温かいのに、彼女の掌は冷えたままだ。薪の匂いが残る会所の中庭を横切り、濡れた土が踏み固められた足跡をなぞる。そこに立つ男たちの笑い声だけが妙に響いていた。

「例外は、病だ」

 誰かが言い、別の誰かが笑う。

「病なら切るしかない。切れば平等だからな」

 声の主を見なくても、クレールにはそれが誰であるかが分かった。ラクロワの笑いだ。その笑いの裏には刃が隠されている。クレールはうつむいたまま、足を止めずに通り過ぎようとした。だが、ラクロワの刺すような視線が彼女を捉える。

「ドゥルマの娘じゃないか」

 呼び止められ、彼女は立ち止まった。父の同僚に背を向けて逃げれば、それもまた噂になる。

「はい」

 彼女は答え、頭を下げた。

「おまえの父上は立派な人間だ。会所の秤を傾けることがない」

 ラクロワはニヤリと笑った。

「だが秤の周りはたいそう冷える。お前はどうだ」

「冷えます……」

 クレールは話を合わせるように短く答えた。

「冷えるなら、火に近づかないことだ」

 ラクロワは鋭い視線を向けてクレールに忠告した。

「火は温かいが、必ず煙が出るものだ。煙は目に入るとしみてひどく痛む」

 クレールが黙ってもう一度頭を下げると、彼は満足げに男たちと顔を見合わせると、ふたたびクレールを一度だけ見てから、去って行った。

 それからほどなくしてクレールは礼拝堂の前の石段に着いた。ジャンと約束した待ち合わせの場所だ。周囲を見渡すと、石段の端に男がただひとり、ポツンと座っていた。ジャンだ。コートの肩が少しだけ濡れている。回廊の湿りを吸ったのだろう。クレールは石段の少し手前で足を止め、呼吸を整えた。名を呼びそうになって、思わず口を閉じる。名を呼ぶ声を誰かに聞かれれば、いつか父の机に落ちるだろう。

「会いたかった……」

 クレールがジャンに近づきそっと声をかけると、彼は座ったまま顔だけを上げた。そこに笑顔はない。笑えないというよりは、笑い方を忘れたように見える。

「きょうの会所は……どうだった」

 ジャンが周囲を気にしながらクレールに尋ねた。

「怖かったわ」

 クレールは、大粒の涙を流していた女を思い浮かべながら、即座に答えた。

「人々を守るべき場所なのに、とても怖かった」

 ジャンは頷いた。同じ傷を持つ者の頷き方だ。

「父に、見られてしまったの」

「なにがあったんだ」

「泣いている女の人がいた」

 彼女は昼間の会所での出来事を思い出しながら、言葉を選んだ。

「昨日の札を持ってきたの。だから、配給を受けられませんって答えたわ」

 そう言いながら、喉の奥が熱くなる。

「でも、札に記された日付がたった一日違うだけで、追い返されるなんて……。なんとかしてあげたいと思ったの」

「助けたのか」

 ジャンが問う。

「ええ、手順を守る形で」

 クレールは答えた。

「例外じゃなくて、列の人々に手順がちゃんと見えるようにしたの」

「列は荒れなかったか」

「えぇ、父が……そう言ったの。助けたいなら目立たないように、手順を見せろ、と」

 そう言いながら、父の言葉を借りて自分の正義を守ろうとしている気がして、クレールの胸は少しばかり痛みを感じていた。ジャンは目を伏せ、指で石段の縁をなぞった。なぞる指が、縫い目を確かめる指と同じ動きをしていた。彼はしばらく黙っていたが、この場に続いている沈黙が、いつものそれとは違うことに、クレールは気づいた。

 いつもの沈黙は盾だが、この沈黙は、崩れかけた壁のように見えた。

「ここを離れたいんだ」

 うつむいたまま、弱々しい声でジャンが言った。クレールは息を呑んだ。弱々しい声の裏には本音が隠されている。彼がここを離れたい理由は、恐らく彼女の身を案じてのことだった。そして、彼女の父のためでもある。誰かを守るために離れる。それはひとつの愛の形だが、愛の形は刃の形にも似ている。

「離れて、どこへ……」

 彼女はひと息置いて、彼をじっと見た。

「分からない」

 ジャンが答える。

「分からないが、ここにいると、いつか縫い目が裂ける」

「裂けたとしたら……」

「……」

 ジャンは黙り込んだ。彼女の胸の中で見えない秤が左右に大きく揺れ動く。

「私も」

 声が震えないように、クレールは必死で腹の奥から声を押し出した。

「私も……ここを離れたい」

 いま口にした自分の言葉がどれほどの重さを持っているのかを、彼女自身、まだ本当にわかってはいなかった。だが、このまま秘密の恋は続かないであろうことだけは理解していた。

 ジャンが驚いて彼女を見た。

「私も一緒に行く。あなたと一緒にいたいの」

 ジャンは返す言葉を見つけられずにいた。それはつまり、二人の退路が絶たれるということだ。戸惑った様子のジャンを、まっすぐに見つめてクレールは言った。

「仕立て屋で、何かあったの」

 ジャンは一拍置いて答える。

「親方に言われたんだ」

 ジャンは石段の端を見つめながら温度のない声で続けた。

「丁寧すぎるな、と。丁寧さは噂の目を呼ぶから、と」

 ジャンの脳裏に、回廊でクレールと会ったときの出来事が蘇る。

「店の弟子が、俺たちの様子を見ていた、たぶん」

 ジャンは続け、声をさらに落とした。

「あのとき、君が去った後、気づいたんだ」

 クレールはジャンが驚くほど冷静に、彼に尋ねた。

「あなたは、怖い? 」

 そう問うたあと、小さく一呼吸を置いた。問いは時として刃にもなるから、そうならないように、息で丸めた格好だ。

「怖い」

 ジャンの答えは明確だった。そしてクレールまた、想いは同じだ。

「私も、とても怖い……」

 彼女は言った。

「窓口で泣いている人を見て、自分のしていることがとても怖かった。それに、父の言う手順が正しいと思えば思うほど、怖さが増していくの」

 正しいほどに怖さは膨らんでいく。ジャンはふと、握りしめられた彼女の手元に目をやった。視線だけで、縫い目を探す。探す癖が、彼の指先の代わりになる。

「会所は皆を守る。けれどその守り方は、まるで刃だ」

 ジャンはそう言うと、言葉の最後でとっさに唇を噛んだ。会所の委員を父に持つ彼女の前で言いすぎたと、自らを律する仕草だった。だが、そこまで言葉にしなければ、いまの二人は前へ進めないとも思った。

 ジャンのその言葉を聞いたクレールは、ひとり石段の端に立ち空を仰ぎ見て、風の向きを確かめた。風は、あるときにはパレ・ロワイヤル回廊の匂いを運び、またあるときには会所の匂いも運んでくる。見えない匂いは、どこからか、常に二人を追いかけて来る。

「一緒にふたつの風を背負うしかないわ」

 クレールは石段に座ってうつむくジャンを見て言った。

「あなたの中の恐れの正体が何であるかは、まだ私にはわからない。でも、あなたが踏み出すのなら、私も踏み出す……」

 それは、覚悟を決めようと、心の中で揺れ動く秤のバランスを、必死で保とうとするクレールの誓いのようでもあった。

「君が一緒なら……、もっと危ないかも知れない」

 ジャンは、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。 

「でも、危ないのはひとりでも二人でも、どちらでも同じだ」

 ジャンはそう言ってクレールを抱き寄せた。

「君の御父上は、私を測ろうとしている。いちど測りに乗せられた以上、もう私は線の外には戻れない」

 言葉の端々に、彼の出自が滲んでいた。この出自を臭わす癖がいつか綻びになると、彼自身も知っているはずだった。下働きは自分のことを“わたし”とは呼ばないし、“御父上”などという言葉も使わない。だが、幼い頃に記憶された立ち居振る舞いや言葉遣いは、簡単に消えてはくれない。

 クレールはジャンの背中回した両手をそっと背中で重ね、手袋の縫い目を押さえた。彼女にとってはそれが自分への誓いだった。

「また、鐘が鳴る前に」

 約束の言葉は、二人には前よりも重く感じられた。家へ戻る道中で、クレールは会所の窓口での、あの女の涙を思い出していた。

 涙は決して弱さの印ではない。たまたま手順の外へ落ちてしまった者の声にすぎない。人々の声を狭い権力の中に押し込めてしまえば、いずれ共和国は強くなると父は信じている。だが強くなった共和国が、弱い者を潰すなら、何を守っているというのか。

 父の沈黙はさらに増えていた。いつもより遅くに帰宅した父が開ける扉の音は小さく、鍵を外す手にも疲労が見える。コートの裾に乾きかけた泥が付き、会所の廊下の匂いが混じっていた。クレールはそれを見て、胸が詰まった。父は会所の中で紙を数えるだけではない。外へ出て門の様子をチェックして、巡回たちの監視体制に目を光らせている。

「遅くまで……」

 クレールが言うと、父は黙って頷くと、水差しを口に運び、短く息を吐いた。吐いた息が、ほんの少しだけ熱い。熱い息は、怒りではなく焦りの印だ。

「窓口は、どうだった」

 父はそう訊ねると、問いのあとにしばしの沈黙を置いた。沈黙が答えを量る。量られていると分かると、嘘は口の奥で固くなる。

「えぇ、なんとか滞りなく……」

 クレールはそう言うと、口をつぐんだ。父もそれ以上は問わず、卓の端に置かれた彼女の手袋を見た。縫い目のほつれを見たのではない。手袋が彼女の掌の形を覚えていることを見たのだ。そのまま父は2階の部屋へ入り、扉を静かに閉めた。閉まる音が小さいほど、家の中の呼吸が苦しさを増していく。

 その夜、クレールはベッドに入っても目を閉じようとはしなかった。石段での「ここを離れる」という二人の近いがが耳に残り、寝付かれない。耳に残る言葉たちは温かさを運ぶのに、どこかに危うさの温度も保っている。危ないものほど、人は抱え込むものだ。

 ドゥルマは自室の机に地図を広げていた。会所の帳面なら慣れているが、地図は帳面とは違う。線の先に、人の家があり、畑があり、宿があり、店がある。紙の確認は、線の確認である。そしてその線の確認は、道標の確認だ。

 彼は灯りを近づけ、門の外の街道を指でなぞった。なぞる指が、仕立て屋で目にした縫い針の動きに似ていることに気づき、彼は指を止めた。父の思想はけして揺るぎない。共和国を守ることは、彼の誇りだ。その誇りを捨てれば、自分が立って来た線が崩れてしまう。崩れた線の下では、もっと多くの者が潰れると、彼は信じている。

 だが揺れているものもあった。守るべき弱者の輪郭だ。そのぼんやりした輪郭の中に、いつの間にか娘が入り込んだことに気付いてしまった。その事実だけが、彼の胸の秤を狂わせようとしていることに、まだ本人も気づいてはいなかった。


 
 ドゥルマは椅子の背に体重を預け、目を閉じた。閉じたまぶたの裏に、窓口の列が浮かぶ。泣く女、怒る男、耳を真っ赤にして泣き叫ぶ赤ん坊。その輪郭の中に、娘が立っているのが見えて、彼は慌てて目を開けた。。

 遠くで門の鐘が鳴っていた。ひとつ、またひとつ。数えるたびに、街の外と内が締め直される。締め直されるたびに、誰かの息が細くなっていく。息が細くなる音を、彼は会所の机で聞いて来た。ドゥルマは地図を引き出しへしまう前に、もう一度だけ目の前に広げてみた。

 広げた地図は、ただの紙ではない。道の方向を示す道標だ。だが、方向さえ胸に焼き付けてしまえば、こんな紙がなくても歩くことができる。ドゥルマは、地図を丁寧にたたんで机の引き出しに戻した。

 廊下へ出ると、家は静まり返っていた。しかしそこに漂う空気はピーンと張る詰めている。ドゥルマは娘の扉の前で足を止め、耳を澄ませた。扉の向こうで、寝返りを打つ気配がした。布が擦れる音が小さく鳴る。その音は、会所の紙の擦れる音よりも柔らかい。柔らかい音に、彼は一瞬だけ目を閉じた。

 弱者の輪郭に、娘が入ってしまった。入ってしまったなら、彼は輪郭を守らねばならない。守るための手順は、紙ではなく道にある。道の確認は、誰にも見せない行為だ。見せない行為だけが、娘を守る。ドゥルマは娘の部屋の扉にそっと置いていた掌を離し、足音を立てずに自室へ戻った。

 クレールは眠れないまま、闇の中で彷徨っていた。夜明けはまだ見えていない。けれど秤の針は少しずつ動く。動いた分だけ、ジャンとクレールの線は太くなり、父の沈黙は深くなっていく。彼女はその胸に抱えたものがほどけ落ちてしまわないように、目を閉じた。

 外で風が鳴り、どこかの家の扉が風に打たれている。遠くで聞こえているはずのその扉の音が、いつまでも彼女の胸の中で大きく響いていたーー。

【見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2部 刃(やいば)の手順 第9章 告発の刃】の更新予定は3/6です。

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