【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2部 刃(やいば)の手順 第7章 父とジャンの対面

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 恐怖政治のさなか、パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で働く青年ジャンは、地区会所に勤める父を持つ娘クレールと出会う。言葉ではなく縫い目で惹かれ合った二人の恋は、噂と視線が支配する時代の網に絡め取られていく。

 クレールの父ドゥルマは、革命の任務に誇りを抱いたまま、娘を守るために“制度の内側”で恋人たちの逃走路を開く。だがその小さな例外は「平等」の名のもとに断罪され、父はすべてを背負って断頭台へ向かう。

 自由とは、平等とは、そして愛とは何だったのか。答えは出ないまま、問いだけが夜明けの空に漂っていた。

主な登場人物

開く

ジャン(普段名)/アルマン(真名)
パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で下働きをする青年。元貴族の家系である出自を隠して暮らしている。

クレール
市民を取り締まる地区会所の監視係の父を持つ。秩序を信じたいが、恋によって「正しさ」の輪郭が変わっていく。

ドゥルマ
クレールの父。地区会所の監視係(治安担当)。任務への誇りを捨てず、家庭では厳格で寡黙。

ラクロワ
地区会所の同僚で急進派。正義を「例外の排除」として理解し、平等の名で人を追い詰める。

ルノー親方
ジャンが務める仕立て屋の親方。会所の発注と巡回の気配に怯えながらも、店と職人の矜持を手放さない。

ニコラ
仕立て屋の徒弟。飢えと恐怖から口が先に動き、ジャンの「違い」を面白がって噂の火種を作る。

ブリュノー夫人
パレ・ロワイヤルの古参。過去の匂いに気づく目を持つ。

ガスパール
御者(馬車の車夫)で、門と荷車の流れを知りつくしている男。

ポワリエ夫妻
街道沿いの宿の夫婦。問いを増やさず、沈黙で匿う。

マドレーヌ
フランス南部の田舎町に住む縫い手。

前回のストーリー

第2部 刃(やいば)の手順

第7章 父とジャンの対面

秩序の影

 仕立て屋の戸口に掛かった鈴が鳴るたび、店の空気は一度ずつ形を変えた。客の息、外の湿り、回廊の喧噪。それらが布の匂いに重なり、縫い台の上で渦を巻く。ジャンは渦の中心に立たないように、針先を低く保った。低く、静かに、目立たない縫い目を作る。それが生き残る技術だと、彼はもう疑わない。

 だが今朝は、鈴が鳴る前から店が硬かった。ルノー親方の机に、会所の印が押された紙が二枚並んでいる。一枚は昨日の納品の控え、もう一枚は追加の発注だった。紙の端が指に触れるだけで、針より鋭い冷えが走る。布が足りない。

 糸が足りない。足りないものを、足りている形に縫い上げる。何を削り、どこを隠し、どこに重みを残すか。見えない秤は、いつも会所の側にある。

 弟子のニコラは、朝からやけに口数が多かった。針山を弾き、糸屑を蹴り、隣の職人の手元を覗き込み、わざと大きく息を吐く。

「親方、会所の仕事が、また増えたんですか」

「黙って手を動かせ」

「会所の仕事が増えたからって、俺たちの腹が満たされるわけじゃない」
 
ニコラの言葉が針の音をかき乱す。ルノーは返事をせず、布の端を押さえたまま目を上げない。ジャンはコートの肩を縫い直しながら、昨日のことを思い出していた。クレールと回廊の柱の奥で会った時、背後に映っていたもう一つの影。あれは誰だったのか。ジャンは一瞬針を持つ手を止めて、見慣れたニコラの後ろ姿を横目で追った。

 午前の光が硝子に白く滲むころ、仕立て屋の戸口の鈴が鳴った。いつもの客の鳴らし方ではない。迷いがない足音が店の中に響く。迷いのない足音はいつも厄介な客が来た合図だった。

 入り口で配達の男が包みを差し出すと、さっと脇へ退いた。背後に、もう一人の影がある。その影はさほど大きくはないが、それでも、店の空気は一瞬にして重たい空気に覆いつくされた。

 会所の委員、ドゥルマだ。彼が職務に忠実である会所の監視係だと知っている者は息を止める。彼を知らない者までもが、ただならぬ雰囲気を察して肩を固くした。ドゥルマが身に着けている腰の鍵束が、彼の歩幅に合わせて小さく音を立てる。鍵の音は、閉門の音と同じ種類の音だった。その音が鳴るだけで、人々の背は固くなる。

 ルノーが椅子を引く音がした。椅子の脚が床を擦る音が長くなるほど、親方の心は焦っている。

「会所からの発注を確認に来た」

 ドゥルマの低い声が、ずっしりと響く。低い声は、怒鳴り声よりも人を動かす。

「昨日の納品、コートは3着だったな」

「はい」

「腕章は10枚」

「はい、間違いなく」

 ドゥルマは帳面に視線を落とし、指で欄をなぞった。指先は荒れていない。それが彼の仕事の性格を示している。彼は血を浴びる役ではなく、血が流される前に線を引く役目だった。

「今朝、また追加が出た」

 配達の男が横から1枚の紙片を差し出す。

「外套2着。それに巡回用の腕章を、さらに8枚だ。夕刻までに」

 ルノーの喉が鳴った。鳴ったのは拒みたい喉ではなく、拒めない喉だ。

「今日の夕刻まで、ですか」

「夕刻までだ」

 ドゥルマは言い切り、店の中を一度だけ見回した。その目は、商品を見てはいない。人の動きを探っている目だ。彼は裁ち台の端に置かれた三色章を手に取り、縁の糸の弱りを確かめた。糸がほつれれば、腕章はただの布になる。

「糸が足りないな」

 ドゥルマは、ルノーの机の隅にある小瓶を見た。

「会所の倉庫に、短い糸の束が残っている。それを回してやれる」

 助けの言葉の形をしてはいるが、そうではない。

「記録しておく。あとで受け取りの証書と一緒に届けさせる。余りが出たら返却するんだ。返却できないときは……」
 
 手順を間違えば、すぐに巡回がやってくるという念押しだった。

「承知しました」

 ルノーの声は穏やかだ。だが、張りはない。会所の助けを受け取れば、また、見えない鎖が増えるだけだと分かっていた。ジャンは作業の手を止めることはなかった。じっと手元に集中し、布の目に自分の呼吸を合わせる。針先が布を貫くたび、無意識に動揺する心臓の音が少しだけ遠のく。

 だが、ドゥルマの視線は、けして遠のいてはいかない。鋭い視線は店の奥から手前へ向かい、やがて、作業台の端で作業するジャンの指先の上で止まった。ルノーは、不安そうに、だが、目立たぬよう、横目でジャンを見た。

 ドゥルマはジャンの手元から作業中のコートを無造作に引き寄せ内側をめくると、継ぎ目の位置を確かめた。脇の下へ逃がした縫い目は丁寧に整えられ、見えにくく処理されている。その縫い目には作り手の技が見える。

 ドゥルマは何も言わず、コートをジャンの手に戻した。

「名は」

 ジャンははじめて顔をあげると、まっすぐドゥルマを見て答えた。

「ジャンです」

 ドゥルマは頷かなかった。だが、そこから去ろうともしない。彼はしばらく、ジャンの指先をじっと見ていた。指の関節の硬さ。爪の整い。糸を引くときの手首の角度。

「ジャン」

 ドゥルマが言った。

「最近、配給の列が荒れることが増えた」

 仕立て屋の人間たちは、手を動かす振りをして、みな聞き耳を立てている。ジャンは、動きを止めて不思議そうにドゥルマを見上げた。ドゥルマは言葉を短く切り、店の空気をも切り分けているようだった。

「列が荒れた時、お前なら、誰を先に通す」

 店の空気が凍り付く。奥の作業台ではニコラが息を呑む。ルノーは唇を結び、帳面に視線を落としたまま端を指で押さえる。ジャンはドゥルマが答えを探しているのではないことを知っていた。ではなぜ、このような質問を投げかけているのか。

「恐らく、倒れそうな者を先に通すでしょう」

 ジャンはそう言うと、再び手元の針に視線を落とした。

「いいか、よく聞け。正しいかどうかより、どう見えるかだ」

 ドゥルマは言った。これは試問の続きでもあり、忠告でもあった。

「弱い者を先に通した、と見えるだけで、誰かはお前を正義の味方にする。正義の味方にされた者は、次に敵として扱われる」

 ジャンは再び顔を上げて、ドゥルマの目をじっと見た。そして悟った。この男は何かを知っているーー。

 ドゥルマがルノーの方へ向き直ると、ルノーの背がわずかに固くなる。

「いいか、会所の発注は落とすな」

「承知しております」

「落とせば、巡回が増える。そうなれば…… 。いいな」

 それは脅しではなかった。ルノーが深く頭を下げる。頭を下げた角度の深さは恐れの深さだ。ドゥルマが扉へ向かいかけた時、店の鈴が鳴った。今度の鈴には迷いがある。迷いがある音は、若い者の音だ。ドゥルマは足を止めた。硝子の外の光が揺れ、回廊の人影が切り取られる。見慣れた姿だ。

 入ってきたのはクレールだった。その場にいた者たちの目が、一斉にクレールに向けられる。会所の使いで来たふりをして、その表情には明らかに別の期待で満ちている様子がうかがえた。クレールの目がジャンを捉えてから、さほど時間をかけずして、今度は父の姿を捉えた。彼女は驚き、息を飲み込んだ。

「お父様……」

 ドゥルマは黙ったまま横目で彼女を見た。ここで父になれば監視係としての線が崩れる。クレールは一歩だけ進んで、止まった。親方のルノーに受領票を差し出そうとする指先がかすかに震える。ジャンは驚いた顔で立ち上がり、作業台の脇で立ち尽くしていた。立ち尽くすのは無力の証だ。

「失礼する」

 ドゥルマは何も言わないまま、クレールの横を通り過ぎて扉へ向かうと、最後に一度だけ振り返った。振り返った視線が刺したのはジャンの顔ではない。ジャンの指先だ。そして、ドゥルマは何も言わずに出て行った。鈴が鳴り、音が回廊の光に吸われる。吸われた音のあとに、沈黙だけが残る。重たい空気が仕立て屋に充満していた。

残された沈黙

 クレールは受領票を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。言葉が見つからない。言葉を足せば足すほど、自分の罪が形になるような気がした。彼女は小さく息を吸い、吐いた。

「……ごめんなさい」

 店の者たちに向けた言葉なのか、ジャンに向けた言葉なのかか、クレールは自分でも分からなかった。

「父は……何も言わない時がいちばん怖い」

 彼女は冷静を装いながら、震える声で言った。

「見ているだけで、全部を量ってしまう」

 父は秤の側にいる。娘は秤の皿に立っている。

「お父上は、あなたを守ろうとしているだけです」

 ルノーが低い声で言った。

「お嬢さん、今日は用はない。……このまま、帰ったほうがいい」

 追い払う言葉に聞こえる。だが追い払うことが、守ることでもあると、クレールは分かっていた。一度だけ振り返りジャンの横顔を目で追った。だが、ジャンは彼女を見ない。それが彼女を守ることになると知っていたから。

 クレールが去ると、止まった店の時間がようやく動き出す。だが冷え切った空気は簡単には温まらない。ただひとり、ニコラの舌はどれだけ冷えていてもよく動く。

「監視係に試されてるってのに、よく喋れたもんだ」

「仕事だ」

「仕事? 会所の列のはなしが仕事だって? 」

 ニコラの笑いは軽口で彩られた仮面だった。仮面の下にあるのは、自分が見張られる恐れと、見張る側へ寄りたい飢えた心だ。

「倒れそうな者を先にだと? たいしたもんだぜ、まったく」

「口を閉じろ」

 ルノーが言うと、ニコラは小さく舌打ちをして、作業台に置かれた布束を乱暴に抱えた。

「親方、今日はさっさと上がらせてもらいますぜ」

「勝手にしろ。だが、給料はしっかり引いておくからな」

「上等だ。飲まねぇとやってられやしねえ」

「今夜はやめておけ、どうせまた減らず口叩きやがるだけだろう」

「口は減るもんか。減るのは札だけだぜ」

 ニコラはそう言うなり、抱えた布束を棚に放り込み、戸口へ向かった。鈴が鳴り扉が開くと、回廊の光が一瞬だけ店の床へ落ちる。そして、光はニコラの背中と重なり合ってすぐに消えた。消えた光のあとに残るのは、縫い目の音だけだ。ルノーはニコラの背を追わず、ジャンに向かって言った。

「お前の賢さは、あいつの腹を刺激する」

「はい……」

「あいつも根は悪いヤツじゃないんだが、なんせ口が軽い。軽い口はいつか誰かに刃を向けかねん」

 ジャンは手を止めずに頷いた。ルノーは帳面を閉じ、針を取りながら続けた。

「いいか、賢すぎる答えは、いらぬ刃を呼ぶもとだ」

 親方の声はいつもより低かった。

「お前はよく働く。だがよく働くヤツほど、周りから色んな目で見られるということだ」

 夕刻までにコートを2着。腕章を8枚。店の誰もが手を動かしながら、同じことを考える。間に合わなければ巡回が増える。夕刻へ向かうほど、回廊に響く人々の声が賑やかになっていく。硝子の外で子どもが走り、売り子が声を張り、遠くで揉めごとの声がする。

 ルノーは表を気にして何度も戸口を見ていた。気にしているのはやってくる客の姿ではなく、噂の目だ。ジャンはルノーの隣に座り、針を進めていた。わざと手を荒く見せるために糸を引く角度を変えてみたが、かえって癖を浮かび上がらせる。癖は隠すほどに濃くなっていく。

 ドゥルマは回廊を抜け、会所へ戻る道を遠回りしていた。まっすぐ戻れば、見知った目に拾われることを恐れたからだ。会所が近づくと、通りの角では配給を求める列がすでに伸びていた。札を握る手、空の籠、乾いた咳。列の中の誰かが声を上げ、すぐに別の誰かが黙らせようとする。正しさが正しさを殴り合う。殴り合いの中で、秩序だけが擦り減っていく。

 ドゥルマはその列の横を、できるだけ視線を逸らしながら、足を止めずに通り過ぎた。目に入れば監視係として介入することになる。いまここで介入することになれば、回廊からの導線が残り、やっかいなことになる。

 会所の門をくぐり、建物に入ってくると、外の湿りが消え、紙と汗の匂いが濃くなる。窓口には机が並び、札が並び、腕章が並ぶ。並ぶものは秩序に見えるが、並ぶものが増えるほど、人の暮らしは狭くなる。廊下の曲がり角で、ラクロワが待っていた。待っていたというより、そこにいること自体がドゥルマへの挑発だった。彼は笑っている。

「回廊の仕立て屋へ行ったそうだな」

 回廊の噂は風よりも早く会所へと辿り着いていた。

「発注の確認だ」

「確認、ねぇ……。 回廊の面白い噂を知ってるか? 育ちの良い下働きがいるって」

 ドゥルマは返事をしなかった。返事は肯定にも否定にもなる。ラクロワはその沈黙を執拗に嗅ぎながら、さらに踏み込む。

「平等をわすれるな。例外を作れば、列が崩れるぞ」

「列は、例外がなくたって崩れるさ」

 ドゥルマは短く返した。するとラクロワは目を細めて、ドゥルマをにらみつけるように言った。

「例外を作れば、誰かがそれを真似る。それがまかり通れば共和国の力は弱るぞ」

 ラクロワは正義の目をしていた。いつの時代も、正義の目は人の事情を嫌う。ドゥルマはそれ以上話すことはないといった顔で、ラクロワの横を通り過ぎた。肩が触れそうで触れない距離が、彼らの秩序だった。

 ドゥルマの背中越しにラクロワの笑い声が漏れる。漏れる笑いは、すでに次の手順を思い描いている笑いだ。ドゥルマは歩みを止めず、ただ鍵束を一度だけ握り直した。

 その日、クレールが会所での手伝いを終えて家の扉を開けると、父のコートはすでに椅子の背に掛かっていた。コートの縁は会所の灰を吸っている。父と娘の間に続く沈黙。食卓の皿でさえ音を立てることを拒む。置かれたパンの切れ端も、皿の上で沈黙を守る。沈黙を守れば守るほど、家の中の空気は濃くなっていく。濃い空気は、息をするだけで罪に触れる気がした。

 ドゥルマは夕食を終えると、椅子を引き、背筋を崩さずに立ち上がった。まるで会所の廊下が背後にあるかようにピンとした背中は、疲れが滲んでいた。クレールは父の背にそっと話しかける。

「今日、回廊で――」

 言いかけた言葉が少しだけ喉に引っ掛かる。父の背が振り向かないことを、彼女は知っている。振り向かせれば、父の中の監視係がこちらへ歩く。歩いた監視係は、娘の言葉を秤へと乗せることになる。ドゥルマは振り向かないまま、短く言った。

「遅くなるな」

 娘を守るために絞り出したひと言だった。クレールは頷き、続きの言葉を飲み込んだ。クレールは自室へ戻ると寝台の縁に腰を下ろし、指先を見つめた。父は彼女に優しい言葉を与えなかった。仕立て屋で見た父の横顔は、会所の廊下で見る横顔だった。そこに娘の席はない。娘の席がない場所で、彼女の恋は息をする。

 彼女は、幼い頃に父のコートのほつれを直した夜のことを思い出していた。針を持つ指が痛くて泣きそうになった時、父はただ灯りを近づけ、糸をほどく手順だけを示してくれた。あのときも、慰めはなかった。父を失いたくない痛みが、縫い糸より細く胸を締めつけた。

 灯を落とした部屋で、彼女は手袋を膝に置き、縫い目を指でなぞった。夜半、廊下で鍵束が小さく鳴った。父が歩く音だ。父の歩幅は一定だ。一定であることが秩序であり、彼の誇りでもある。足音が自室の前で止まり、扉の向こうで沈黙が生まれる。沈黙は見張りより怖い。

 クレールは息を止め、布団の中で手のひらを握りしめた。扉の向こうで何かの気配がした。金具が擦れ、木が小さく鳴る。父は扉の留め具を確かめている。眠りを妨げぬよう、音を極限まで抑えて。

 やがて足音は遠ざかっていった。遠ざかったあとに残るのは、直された留め具の確かさだけだ。その確かさは彼女にとって安心ではない。父が何かを決断しようとしている合図にも見えていた。

 ドゥルマは自室へ戻ると、机の引き出しから薄い地図を出した。地図は会所の机の上では許されるが、家の机の上では許されない種類の紙だ。彼は灯りを近づけ、門の位置と巡回の線を目でなぞった。線はいつも同じように見えて、同じではない。少しの癖、少しの怠り、少しの油断。その少しが、人の命を左右する。

 会所の廊下で聞いた笑いが、まだ耳の奥に残っている。ラクロワの笑いは、いつも先に正義を名乗る。だが、ドゥルマは自分の正義を捨てない。例外を作るべきではない。だが、娘の足元に落ちた糸屑の線は、すでに例外の入口を作ってしまっている。

 ドゥルマは鉛筆を置き、引きかけた線を指で擦って消した。消した線は紙からは消えるが、彼の胸からは消えない。ドゥルマにとって、沈黙は守りだ。沈黙はまた、刃の準備でもある。彼は灯を落とし、闇の中で、まだ引いていない線の重さだけを量った。

固まる結び目

 回廊では、店を閉めたあと、ルノーが帳面を引き出しにしまい、灯りを一つだけ残した。残した灯りは作業のためではない。話をするための灯りだ。ジャンは針箱を抱えたまま、親方の前に立った。立つ姿勢が丁寧すぎると気づき、わざと肩を落とした。落とした肩は、すぐ元へ戻ろうとする。癖は家の名残だ。

「昼間の男、あれは誰だと思う」

「監視係です」

「それだけならいいが」

 ルノーの問いが、針より深く刺さる。ジャンはルノーの言いたいことを理解していたが、あえて答えなかった。ルノーはそれもわかっているといった口調で続けた。

「お前の答えは正しい。だが正しい答えほど、誰かが自分の正義に使おうとする」

「もしも、使われれば……? 」

「使われた先で、すぐに紙になる」

 外で風が鳴り、回廊の硝子が微かに震えた。見えない糸が、どこかで結び目を作っているような震えだ。ジャンはその震えを掌で押さえられないことを知り、針箱を抱えたまま、ただ息を整えた。夜が更け、回廊の光が薄くなる。ジャンは針箱の蓋に掌を置いたまま、しばらく動けなかった。

 ドゥルマの沈黙は脅しではない。秤の針が動いたという合図だ。名は呼ぶためではない。守るためだ。守るための名が、いまは自分自身を縛る鎖になり始めている。コートの内側に縫い込まれた布片が、胸に当たる。布片に温かさはない。だが、温かさがないことが、より現実を確かにする。

 回廊の外で鐘が鳴った。夜明けにはまだ遠い。沈黙の重みだけが、夜の縫い目に残り続ける。鐘の余韻が消える前に、どこかで紙が擦れる音がした気がした。気のせいだと打ち消しても、胸の奥の秤だけは、静かに針を揺らし続けているーー。

【見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2部 刃(やいば)の手順 第8章 クレールの揺れ】の更新予定は2/27です。

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