【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第1部 回廊の秤 第3章 列のざわめき

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 恐怖政治のさなか、パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で働く青年ジャンは、地区会所に勤める父を持つ娘クレールと出会う。言葉ではなく縫い目で惹かれ合った二人の恋は、噂と視線が支配する時代の網に絡め取られていく。

 クレールの父ドゥルマは、革命の任務に誇りを抱いたまま、娘を守るために“制度の内側”で恋人たちの逃走路を開く。だがその小さな例外は「平等」の名のもとに断罪され、父はすべてを背負って断頭台へ向かう。

 自由とは、平等とは、そして愛とは何だったのか。答えは出ないまま、問いだけが夜明けの空に漂っていた。

主な登場人物

開く

ジャン(普段名)/アルマン(真名)
パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で下働きをする青年。元貴族の家系である出自を隠して暮らしている。

クレール
市民を取り締まる地区会所の監視係の父を持つ。秩序を信じたいが、恋によって「正しさ」の輪郭が変わっていく。

ドゥルマ
クレールの父。地区会所の監視係(治安担当)。任務への誇りを捨てず、家庭では厳格で寡黙。

ラクロワ
地区会所の同僚で急進派。正義を「例外の排除」として理解し、平等の名で人を追い詰める。

ルノー親方
ジャンが務める仕立て屋の親方。会所の発注と巡回の気配に怯えながらも、店と職人の矜持を手放さない。

ニコラ
仕立て屋の徒弟。飢えと恐怖から口が先に動き、ジャンの「違い」を面白がって噂の火種を作る。

ブリュノー夫人
パレ・ロワイヤルの古参。過去の匂いに気づく目を持つ。

ガスパール
御者(馬車の車夫)で、門と荷車の流れを知りつくしている男。

ポワリエ夫妻
街道沿いの宿の夫婦。問いを増やさず、沈黙で匿う。

マドレーヌ
フランス南部の田舎町に住む縫い手。

前回のストーリー

第1部 回廊の秤

第3章 列のざわめき

列に沈む重さ

 会所の前の道は、朝から湿っていた。夜のうちに降った霧雨が石畳に薄い膜を作り、靴底がその膜を破っていく。列はその石畳の上に、ゆっくりと伸びていた。伸びるのは人の列だけではない。息と苛立ちと、誰にも行き場のない空腹が、同じ方向へ伸びる。

 窓口に立てられた板の向こうから、紙を擦る音が断続的に聞こえる。印が押される軽い音も混じっている。その音は小さいのに、列に並ぶ者の肩を同時に強ばらせる。印が押されれば、パンが手に入る。押されなければ、今日が止まる。

 クレールはコートの襟を立て、窓口の脇に立っていた。父に言われたとおり、朝のうちに家の仕事を済ませ、台所の火を消し、戸締まりを確かめ、歩幅を小さくしてここへ来た。いつもと同じ景色なのに、今日は違って見える。列が目に入るたび、父の机の上に置かれていた紙の束が、人の背中へ移り替わっていく様子が脳裏に浮かんでいたからだ。

 彼女の手には札が握られていた。人々はこの札がなければ、パンのひとかけらさえも受け取ることができない。札は会所と結びつき、会所は暮らしと結びつき、暮らしは名と結びつく。札を失うことは、名を失うことに似ていた。

 列の中には、日が昇る前から並んでいる者もいる。凍えた指をこすり合わせる老人、抱いた子を眠らせたまま揺らす女、帽子の縁を握り潰して視線を落とす男。誰もが同じ方向を向き、同じ板の一点をじっと見ている。だがその視線の奥の瞳に映っているものは同じではない。みなそれぞれに抱える怒り、怯え、諦め、そして自分だけは取り残されないという祈りが混ざる。

 窓口の係が「次」と言うたび、列が一歩だけ動く。待ちきれずに声を上げる者もいた。だが、声が上がれば、即座に巡回の足がその者の元へ向く。列に並ぶ者たちの表情が硬くなり、沈黙が誰かの肩を押し、押された肩は巡回の両腕に掴まれるまでだ。

 クレールはその列の流れを眺めながら、父の言葉を思い出していた。噂は早い。噂は会所に届く。噂が届けば、紙が動く。紙が動けば、人が動く。父が言わなかった続きを、彼女は窓口の前で何度も見てきた。紙の束の重さを、机の上ではなく、この列の人々の現実という重さを。クレールは、父の沈黙が少しだけ理解できる気がした。

静かな手順の効き目

 列の中ほどで、小さな叫びが起きる。

「札が違うって言っただろう!」 

 声は男のものだった。男は手に紙片を握り、窓口へ押し寄せようとする。係が手を上げて止めるが、男は止まらない。止まれない。止まったら、今日が終わるからだ。

「昨日はこれで受け取れた。今日は違うって、どういうことだ!」 

 男の背後で、別の男が肩をぶつけた。

「どけ。規則を守れ!」

 ぶつけられた男が振り返り、二人の間に熱が生まれる。熱はあっという間に周囲へ伝わっていく。列の中の誰もが、他人の揉め事を嫌いながら、同時にそれを利用できると思っている。揉め事が大きくなれば、その者の配給が止まる。そうすれば、誰かが先に進める隙ができるからだ。

「不正だ。不正を許すな!」

 別の声が混じった。その場の空気が硬くなる。クレールは一歩前に出ようとして、足を止めた。いまここで前に出れば、誰かの苛立ちが自分へ向くことを理解していた。会所の人間の娘だというだけで、刃(やいば)を向けられる現実。彼女は自分が刃を持ちたはなかった。だから、誰かが刃を抜く前に、刃を収める手順が必要だ。

 そのとき、列の端で人波の隙間をひとりの青年が静かに横切る。肩を張らず、声も張らず、ただ少しだけ、自分の場所から後ろへ下がっていく。青年の前には背の低い老女が立っていた。老女の手は震え、札を持つ指が上手く開かない。青年は何も言わず、老女の肘にそっと触れた。触れたのは押すためではない。支えるためだ。

 老女が驚いて顔を上げる。青年は目を合わせず、窓口の方へ顎をほんの少し動かした。意味はそれだけで伝わる。先に行け、と。老女は小さく頷くように青年に礼をした。

「おい、何してる」

 誰かが苛立ちの声を上げる。だが、青年は振り向かない。振り向けば、言葉の応酬になるからだ。ここは正しさを競う場ではない。青年は自分の札を掌の中に隠し、老女の背を風から守るように半歩だけ位置をずらした。列の押し合いは、背中の弱い者から崩れる。崩れたところへ正義が刺さる。刺さる前に、彼は自分の番を遅らせて、老婆の背中を支えた。

 クレールはその青年の背中を見て、胸の奥で硬くなっていた感情が、少しだけほどけたような気がした。やがて目の前で不正だと騒ぎになっていた男は、巡回に別の窓口へと連れて行かれた。そして列はまた、なにごともなかったかのように、窓口へ進んで行く。青年の老女に対する善意の動きは控えめだった。むしろ、善意と知られることを避けるかのように、黙って自分の番を少し遅らせただけだった。

 青年の横顔にもう一度目をやるクレール。そして、彼女はすぐに視線を落とした。そこに居たのは、仕立て屋の下働き、ジャンだった。そのことに気付いた瞬間、自分でも説明のつかない動揺が心の中を支配する。しかし彼女の動揺などお構いなしに、次々と目の前の列では問題が起こる。今度は後ろの方で、札を落とした者がいるらしい。紙が石畳を滑り、人の靴に踏まれそうになる。札が踏まれて汚れたり、破れたりすれば、窓口で疑われ、配給を止められることになる。

「どこだ、どこだ」

 小さな叫びが幾重にもなって響き、やがてそれは人々の苛立ちへと変わっていく。その様子に気付いたクレールは、大きく息を吸い窓口の板の前まで進むと、黙って手だけを動かし、窓口の前の人々に空間を作るよう指示を出した。札を拾う者のために、列の隙を作るためだ。窓口の係にも目配せをして、作業も止めた。

 そのとき、クレールの足元に小さな革の布が転がった。手袋だ。彼女はそれが自分の手袋だと気づくのに、少し時間がかかった。さっき札を数え直したとき、片方を外して袋へ入れたつもりが落としていたらしい。落ちた手袋が人々の波に押され、窓口の外へ出てしまった。

 自分の手袋だと気づいたクレールだったが、今、彼女が窓口から離れれば列の均衡が崩れてしまう。そう考えたクレールが動けずにいると、手袋が誰かの靴にわずかに触れた。踏まれる、と彼女が思った瞬間、手袋がすっと持ち上がる。

 拾い上げたのはジャンだった。彼は手袋を拾い上げ、汚れた石畳に触れた部分を指で軽く払った。ジャンは手袋をクレールに差し出し、目だけで言う。落とすな、と。

「……ありがとう」

 クレールは小さく言った。小さすぎて周囲には聞こえない。彼女は手袋を受け取り、袖口の縫い目に目をやった。昨日、彼が直した縫い目だ。裂け目が消え、きれいに線だけが残っている。しかもその線は目立たない。目立たない線が、今の彼女を支えているようだった。ジャンが小さく頷き、列へ戻ろうとすると、彼女はその背中を追いかけたくなる衝動を必死にこらえながら、小さく唇を動かした。

「会所の前は……危ない」

 ジャンは立ち止まり、わずかに頷く。

「分かっています」

 互いの声は聞こえない。だが、クレールにはジャンの、ジャンにはクレールの言葉を理解していた。

 列が少し落ち着き、配給が再開される。パンの匂いが一瞬だけ漂い、列に並ぶ人々の喉の音が鳴る。クレールは係の仕事を続けながら、窓口の外の石畳を見た。さっきまで揺れていた列が、いまは縫い直されたように整っている。縫い直したのは誰かの手順であり、誰かの沈黙であり、誰かの小さな思いやりだった。

 父が日々作っている秩序も、きっと同じだ。大きな正義ではなく、崩れないための細い縫い目。ここで人々が差し出す配給の札を受け取る手は、いつも少しだけ震える。この震えが見えない何かへの怒りの震えなのか、ただ単に寒さからくる震えなのか、クレールには判別できなかった。

 昼の終わりに近づくころ、列の端で女が泣く声がしていた。札を持たない女が、窓口の前で膝をついている。係が困った顔をし、巡回が近寄る。周辺に硬い空気が漂う。

「札を、盗まれたんです」

 女はそう言い、子を抱え直す。子の顔は赤く、口元が乾いている。女の声は震え、震えが周囲の苛立ちを呼ぶ。周囲は同情より先に、自分の札を確かめる。ここでは同情よりも前に、恐れが先に立つ。クレールは目立つ動きを避けるために、歩幅を小さく女に歩み寄った。声も小さくする。小さな声は聞き取りにくいが、それが今は盾になってくれる。

「こちらへ。窓口の脇で」

 女は泣きながら頷き、子を抱え直す。クレールは紙片を受け取り、別の机へ回す手順を示した。そこへ巡回の男が近づき、低い声で言い放つ。

「甘やかすんじゃない」

 クレールは巡回の男を見ることなく、小さな頷きだけで応え、女を廊下の隅へ導いた。例外を増やせば、秩序が乱れることは知っている。だが、目の前の暮らしを守ることが、いまの彼女の中の正義だった。そして、その正義は、いったい誰のための、何のための正義なのか、その答えはまだ見つかっていない―ー。

会所へ延びる糸

 仕事が一息ついたとき、クレールは会所前の広場へ出た。外の空気は冷たく、湿った石の匂いがする。回廊の方角へ伸びる道は、人の往来で常に磨かれている。彼女は手袋を握り、縫い目の硬さを確かめた。あの青年の針目は、怖さの中にある小さな救いとして心の中に残っている。父の仕事も、本当はそういう整いの連続なのだろう。怒声の中で列を立て直し、紙の中で人々の名を立て直す。それは人々に暮らしの中の救いを与えることなのではないか。

 夕刻までのあいだ、彼女は何度も父の姿を探してしまう。探すのは会いたいからではない。父が背負う重さを確かめたいからだ。父は会所のどこかにいる。いるだけで人々は恐れ、列を保とうとしている。そう考えると、父の厳しさが少しだけ別の形に見えてくる。

 夕刻になると、会所の前はさらに混み始める。配給を終えた者が去り、別の用を持つ者が集まる。クレールは柱の影に立ち、手袋をはめ直した。縫い目が掌に当たり、そこだけがわずかに硬い。その硬さが、彼女の心を支える。彼女の視線は間違いなくジャンを探していた。

 会所の扉の前では、相変わらず何人かが小声で言い争っている。配給が足りない、巡回が荒い、札の形が変わった。小さくても鋭い言葉は、聞いた者の肩を硬直させる。硬直した肩はさらに鋭い言葉を探し始め、誰かに刃(やいば)を向ける。ジャンは人波の端から現れた。

 コートは簡素で、袖口が少し擦れている。柱の脇のクレールに気付くと、落ち着いた動きでこちらへやって来た。手には会所から発注された腕章の包みを抱えている。クレールは高鳴る思いを抑えながら、落ち着いた声で言った。

「長くは話せません」

「分かっています」

 二人の間の言葉は短い。

「場所を……変えたいの」

 彼女は言い切らずに、周囲の目を確かめる。ジャンは会所の掲示板に視線を向けた。剥がれた紙の端が風に震え、古い文言がちらりと覗く。彼はそれを見て、首を横に振る。

「中心から外れると、外れたことが目立ちます」

 言い終えたあと、彼は自分の言葉の硬さを悔いた。クレールは短く頷き、手袋の縫い目を指で押さえた。ジャンは、縫い直した腕章の控えが入っている包みを差し出し、布片だけを見せる。腕章の縁の補修だ。縫い目が整い、ほつれが消えている。周囲の目が自分たちに寄る気がして、彼はすぐに包みを閉じた。

「これで終わりです」

 クレールは頷き、包みを受け取る。受け取る瞬間、指が触れそうになり、彼女は慌てて距離を取った。ちょうどそのとき、会所の扉が開き、係が一人出てきた。列の方を見て何かを叫びかけるが、叫びかけた声が途中で抑えられ、低い声に変わる。低い声に変わるだけで、周囲が静まる。静まりは人々の心の中の恐れの表れだった。

 クレールの表情が強張る。父の気配だ。父がここにいる。この場所は危険だ。彼女は意識して父の姿を見ないように会所の扉から視線を外した。視線が交われば、父の沈黙は刃(やいば)になる。ジャンもまた、扉を見なかった。彼は視線を壁に向けたまままま一歩だけ下がった。下がる動きが自然で、誰もそれを気にも留めていない。会所の内側の通路から、低い声と共に足音が近づいてくる。その低い声は入り口で短い指示を飛ばしている。怒鳴り声ではない。いや、それは怒鳴り声よりも危うい声だ。感情のない低い声の指示は“手順”だ。手順は刃を持つ。

「行きます」

 クレールは、「また……」と言いかけた言葉を飲み込み、ひと言だけ告げた。約束は未来を作るかも知れない。だが、いま、未来はすべてが“紙”の外にある。ジャンはただ小さく頷き、クレールに背を向けた。人波の中に二人の距離が溶けていく。

 ジャンの姿が見えなくなると、クレールはようやく深呼吸をした。息が白くなり、白い息はすぐに消えてしまう。ここでは、白い息が怒声になり、怒声が札や紙になり、札や紙が人を動かす。父はそれを毎日、黙って受け止めているのだ。彼女はジャンから受け取った包みをコートの内側へ滑り込ませ、その場を離れた。

 家へ戻る道すがら、彼女は手袋の縫い目を何度も指で確かめた。縫い目は整っている。整っているからこそ、そこに手を置くと自分の心の乱れが分かる。乱れを隠すように、彼女は歩幅を揃える。歩幅を揃えることが、父の娘でいるための小さな手順のように思えた。家の扉を開けると、部屋はまだ冷えていた。父のコートは椅子に掛かっていない。父がまだそこにいないことに安堵してしまった自分に対し、クレールは少しだけ胸の奥に痛みを感じる。

 ジャンは回廊へ戻る途中、門の方角を見た。門は見えない。だが見えない門の存在が、足を速めさせる。パレ・ロワイヤル回廊に入ると、雨の匂いに布の匂いが重なる。湿り気を吸った麻が、店先の軒で鈍い色に光る。仕立て屋の戸を押し開けた瞬間、針を落とす乾いた音が一つ聞こえた。誰かが苛立っている。苛立ちはいつも、足りないものから生まれる。

 親方ルノーは作業台の向こうで、布切れを指で押さえていた。手元には三色章の腕章が数本、糸が足りずに途中で止まったまま置かれている。

「戻ったか」

「はい」

 ジャンは返事を短くし、包みを台の端へ置いた。

「会所の仕事が増える。優先だ。分かっているな」

 親方は顔を上げない。言葉も少ない。だが彼は知っていた。会所の仕事を断れば、巡回が増える。巡回が増えればじきに店も潰れる。そうなればここで働く者も皆、路上へ放り出されるだろう。ジャンは黙って頷き、針山から細い針を抜いた。糸は短いものしか残っていない。短い糸で縫うには無駄な動きが許されない。作業台の横で、弟子のニコラが舌打ちをした。彼は糸を指に巻き、途中で切れた糸端を苛立ちまじりに引き抜く。

「また会所かよ。こっちは腹が減ってるってのに」

 親方が何も言わないと、ニコラの視線がジャンへ移る。

「お前さ、今日も会所に行ったんだろ?良いご身分だよな」

 ジャンは針先を布へ落とし、返事をしなかった。

「黙ってるのが格好いいとでも思っているのか?」

 ニコラが煽り立てるように笑う。ニコラの笑いの裏には、いつも妙な怖さが宿っている。怖さを含めることで、彼は自分が強くなった気がするのだろう。ジャンは針を進めながら、ただ一度だけ顔を上げた。

「仕事をします」

 ニコラは、眉を釣り上げた。

「ほら出た。丁寧すぎるんだよ、お前は。下働きのくせに」

 下働きという言葉が店の空気を冷やす。親方は何も言わない。ジャンは縫い目を揃え、糸端を結んだ。結び目は小さくする。大きい結び目は裏側で当たり、身に着ける者に痛みをもたらす。

 作業の合間に、彼は胸元へ指を滑らせた。コートの内側に、硬いものが一つだけ隠れている。捨てられない古い印だ。守るための名の影がそこに残っている。残っている影が、彼の所作を整えすぎっているのだ。ニコラはジャンの、その一瞬の動きを見逃さなかった。ジャンの一挙手一投足に目をやるニコラ。親方が低い声で言った。

 「ニコラ。針を動かせ」

 ニコラは面白くないといった風に唇を歪め、糸を引き直す。その指先が荒く、糸がまた切れる。切れた糸が床へ落ち、ニコラの苛立ちがさらに増す。増した苛立ちは、今夜どこへ向かうのかを、ジャンは予感していた。だが、それは誰にも止められない。今は縫い目だけを整え続けるしかなかった。

 その夜、回廊の裏の酒場では、別の列ができていた。配給の列より短く、しかし同じ匂いがする列だ。酒は空腹を一瞬だけ忘れさせる。忘れた隙に、舌が軽くなる。軽い舌は、噂の糸を伸ばしていく。ニコラは杯を握り、鼻で笑った。昼の苛立ちがまだ肩に残っている。布が足りない。糸が足りない。親方の機嫌も良くない。足りないものばかりの中で、あの下働きだけが妙に整っている。

「お前ら、見たか。うちの下働き」

 隣の男が眉をひそめる。

「誰のことだ」

 ニコラは、わざと声を少しだけ大きくした。周囲の注目を浴びれば、自分の話が大きな価値になるからだ。

 「ジャンってやつだ。針は上手いし、手は綺麗だ。列でも婆さんを先に通してやったらしい。靴屋のオヤジが言ってたんだ。しかも黙ってだぜ」

 「良いヤツじゃないか」

 男が言うと、ニコラは杯を揺らした。

 「良すぎるんだよ。下働きが、あんな所作をするか? 貴族の坊ちゃんみたいにさ。丁寧すぎて、逆に気味が悪いや」

 笑う者もいれば、黙る者もいた。

 「しかもな」

 ニコラは舌を湿らせ、声を落とした。落とした声は、聞く者を近づける。

 「会所の娘に、手袋を返してやってたってんだ。指も触れない距離で。変だろ?靴屋のオヤジが言うには、あれは品ってやつだとよ。奴は何かを隠してる」

 杯の縁で、酒が小さく震えた。震えは噂の始まりを意味していた。

「隠してるって、何を?」

「知らねえよ。たださ、ああいう奴はいつか綻びる。綻びたら、俺たちが踏んでも誰も文句を言わない。そうだろ」

 言ったあとで、ニコラの喉が少し乾く。踏んでもいい、と言い切れるほど彼は強くない。だからこそ先に言葉で踏んでおく。言葉で踏んでおきさえすれば、いずれ現実が追いついてくると信じられる。ニコラは満足気に微笑んだ。酒場の隅では、知らない男が静かに彼らの話を聞いていた。男は笑わない。ニコラは気づかずに杯を掲げた。

「噂は早い。回廊は早い。だから俺たちは、遅れてはいられない!」

 このとき、自分の言葉がどこへ届くかを、まだ彼は考えていなかった。噂の糸は誰にも見えないまま、会所の方角へ引かれていく。知らない男は杯を置き、静かに席を立った。男が外へ出ると、路地の石畳はまだ湿っていた。男は回廊の灯りを背に、会所の方角を一度だけ見上げた。目に映るのは会所の壁ではなく、壁の向こうで動く“紙”の気配だ。男は口を固く結び、歩幅を乱さずに闇へ溶ける。糸は見えないまま引かれ、どこかで秤にかけられる。

 酒場に残った笑い声は、すぐに別の話へ移った。だが一度結ばれた噂の結び目は、簡単にほどけることはない。明日の会所の廊下で、誰かがその結び目を指でなぞり、確かめるだろう。確かめられた瞬間、縫い目の内側に沈めていたものが、表へ引き出され始める。

 夜明けはまだ遠い。遠い夜明けへ向かって、糸だけが先に走っていく。その糸の先で、誰かの名が静かに量られる。秤の皿は、まだ傾かない。ただ、静かに軋む……

【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第1部 回廊の秤 第4章 名前を呼べない夜 の更新予定は2/11です。

 

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