
この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
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全体のあらすじ
恐怖政治のさなか、パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で働く青年ジャンは、地区会所に勤める父を持つ娘クレールと出会う。言葉ではなく縫い目で惹かれ合った二人の恋は、噂と視線が支配する時代の網に絡め取られていく。
クレールの父ドゥルマは、革命の任務に誇りを抱いたまま、娘を守るために“制度の内側”で恋人たちの逃走路を開く。だがその小さな例外は「平等」の名のもとに断罪され、父はすべてを背負って断頭台へ向かう。
自由とは、平等とは、そして愛とは何だったのか。答えは出ないまま、問いだけが夜明けの空に漂っていた。
主な登場人物
▪ジャン(普段名)/アルマン(真名)
パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で下働きをする青年。元貴族の家系である出自を隠して暮らしている。
▪クレール
市民を取り締まる地区会所の監視係の父を持つ。秩序を信じたいが、恋によって「正しさ」の輪郭が変わっていく。
▪ドゥルマ
クレールの父。地区会所の監視係(治安担当)。任務への誇りを捨てず、家庭では厳格で寡黙。
▪ラクロワ
地区会所の同僚で急進派。正義を「例外の排除」として理解し、平等の名で人を追い詰める。
▪ルノー親方
ジャンが務める仕立て屋の親方。会所の発注と巡回の気配に怯えながらも、店と職人の矜持を手放さない。
▪ニコラ
仕立て屋の徒弟。飢えと恐怖から口が先に動き、ジャンの「違い」を面白がって噂の火種を作る。
▪ブリュノー夫人
パレ・ロワイヤルの古参。過去の匂いに気づく目を持つ。
▪ガスパール
御者(馬車の車夫)で、門と荷車の流れを知りつくしている男。
▪ポワリエ夫妻
街道沿いの宿の夫婦。問いを増やさず、沈黙で匿う。
▪マドレーヌ
フランス南部の田舎町に住む縫い手。
前回のストーリー
第1部 回廊の秤
第2章 父の家、父の顔
沈黙の支度
夜明け前、クレールは台所の火を起こした。炉の奥で木がぱちりと弾け、薄い煙が天井の梁へゆっくり這う。窓硝子はまだ白く、外の通りの音も眠ったままだ。けれど家の中は、眠っていない。鍋の底が温まる匂いと同時に、父の靴の音が二階から降りてくる。
ドゥルマはいつも同じ時刻に起きる。起床の癖は、任務の癖と一体となっていた。朝寝坊などしたものなら、瞬く間に噂が広がり、それは「怠け」と「不忠」の証明書に変わる。彼は多くのそんな証明書を見てきた。だから自分の暮らしにも、余白を作らない。余白は、誰かの言葉が差し込む隙になるからだ。
階段を下りてきた父は、上着の襟を整えながら台所へ入った。髪は整っているが、目の下に影がある。影は年齢のせいだけではない。会所の廊下で立ち止まり、署名を揃え、怒声と泣き声を同じ紙束に挟み続けた影だ。コートの裾には、昨夜の雨の跡が薄く残っている。帰宅が遅かった証が、布にだけ残っていた。
「起きていたのか」
「はい。お茶を淹れます」
クレールは返事をしながら、昨夜のことを思い出す。会所の前の石壁、列の息づかい、手袋の縫い目。記憶は指先に残っているのに、言葉は口から外へは出ようとしない。出してはならないと、身体が知っているからだ。食卓は狭い。木の天板の端が擦れて白くなっている。皿は同じ形で揃えてあるが、欠けた皿が一枚ある。それでも捨てないのは、捨てれば新しい皿が手に入るわけではないからだ。秩序が足りない場所では、物だけがこうして時間を刻んでいく。
ドゥルマは椅子に腰を下ろし、湯気の立つ茶を一口飲んだ。味を確かめるように飲み、すぐに仕事の話へ移る。食事の時間でさえ、彼にとっては任務の延長だ。家を「休み」にしてしまえば、外の顔と内の顔が心の中で葛藤することになる。その葛藤が“割れ目”となり、割れたところから噂は問答無用に入り込んでくることを彼は知っていた。
クレールはパンを切り分けながら、父の指先を盗み見る。爪の間に薄く黒い染みがある。インクの染みだ。洗えば落ちるはずなのに、落ちない。落とせないほどに手を使っている証拠で、父はそれを隠そうとしない。隠さないのは誇りであり、諦めでもあった。
「回廊へ行く用があるなら、日が高いうちに済ませるんだ」
クレールの手が止まる。父は顔を上げずに言った。視線を合わせれば、その先の言葉が深くなり、誤魔化しが効かなくなるように感じたからだ。父もそれを知っていて、二人はあえて視線を合わせない。
「……仕事の用で、通るだけです」
「通るだけでも、通った事実は残るんだ」
父の声は低い。叱責に似ているが、怒ってはいない。この時代を生きるための計算だ。計算はいつもクレールの胸に冷たく響いく。だが、この冷たく聞こえる言葉が、いちばん娘を守ると父は信じていた。
「回廊は噂が早い。噂はじきに会所に届くんだ」
それだけ言い、父はそれ以上の説明をしない。説明をすれば娘は反論を探すだろう。やがて反論は言い訳を生み、娘は自分の首を締めることになる。父は娘を追い詰めたいわけではない。娘を安全な場所に留めたいだけだ。留めるために、刃を見せる必要があることも知っている。
クレールは黙って頷き、皿を並べた。頷く角度は深すぎず、かといって浅くもない。彼女はその重さをすでに知っているようだった。昨夜、会所の前で交わした小さな約束の重さを。父が見ていないところで結ばれた糸は、父が触れられない場所で固く結ばれていく。沈黙が長くなると、クレールは耐えきれずに言った。
「お父様は、いつも正しいのですか」
言ってしまってから、後悔が遅れてやって来る。正しさを問うのは、父の仕事を問うのと同じだ。仕事を問えば、父の存在を問うことになる。ドゥルマはパンを噛み、飲み込んでから答えた。答えを急がないのは、感情を先に出さないためだ。
「正しいかどうかは、後で決まる。今は、崩さないことが先だ」
崩さない、それが“娘を守る”という意味を含んでいることをクレールは感じ取ったが、それ以上の言葉にはしなかった。
父は食事を終えると、椅子の背に掛けていたコートを取った。コートは黒く、肩口の縫い目がきれいだ。会所の委員たちのコートは、人々から見られることが多いから、縫い目が乱れていてはならない。父は自分の身なりの整いを、虚栄ではなく義務だと思っていた。義務を果たしている者だけが、窓口で人に厳しい言葉を投げかけることができるのだと。
「帰りは遅くなる」
「はい」
短い言葉の往復が、家の空気を固くする。クレールは父の背中を見送りながら、父が家に残す沈黙を数えた。数えるほど増えていく沈黙は、愛の裏返しだと信じたい。信じなければ、朝の食卓がただの裁きの場になってしまう。戸口で父は一度だけ立ち止まった。振り返らないまま、短く言う。
「戸締まりを確かめろ。窓も」
それは命令の形をしている。けれどこれは娘との暮らしを抱きしめる代わりの言葉だ。クレールは小さな声で答えた。
「はい」
父はそれで満足したように、靴音を遠ざけた。満足というより、諦めに似ている。言葉を増やせば増やすほど、会所の刃が家へ伸びて来る気がする。彼は家の中でさえ、線を引いて生きているようだった。
手順の重さ
会所の空気はいつも重たい。建物の中に入った瞬間、湿った紙と汗と、乾いた粉の匂いが混ざって鼻を刺す。廊下には人が溜まり、溜まった人の息が壁に貼りつく。窓口の前では長い列ができ、収まり切らず曲がった列がさらに別の列を生む。配給の札、巡回の割り当て、腕章の受け取り、呼び出しの紙、苦情、嘆願。すべてが同じ扉へ押し寄せる。暮らしの入口と出口が、ここ一つに集められている。
ドゥルマは治安係として、入口に近い机を預かっていた。治安係と言っても、直接に刃を振るうのが仕事ではない。刃が振るわれる前に、秩序の形を整えるのが役目だ。列を整え、名前を整え、噂の線を拾い、拾った線を束ねて委員会へ持ち帰る。紙の束は、人々の暮らしの束でもある。
机の上には帳面が二冊、封のある紙束が三つ、印の入った箱が一つ。この箱は小さいが、会所でいちばん重たい箱だ。この中に納められている印が押されれば、配給が動く。巡回が動く。呼び出しが動く。誰かの家の扉が叩かれる。そして人々の心が切り裂かれる。印を押す音は軽いのに、もたらす結果はとても重い。見えない重さゆえに人は印を欲しがり、印を恐れる。
机の上に置かれた帳面の余白には、区画ごとの不満が簡単に書き留められている。パンが遅い。札が足りない。巡回が荒い。巡回が薄い。誰かが誰かを疑っている。疑いの最後に付け足されるのは、いつも同じ言葉だ。会所が何とかしろ。会所の机は、街の怒りの受け皿にもなっている。同じ机の端に仕立て屋への発注の控えが置いてあった。目を落とすドゥルマ。腕章の補修、コートの縫い直し。どれも急ぎだ。彼は段取り欲書類に目を通し、署名した。
間もなく昼になろうという頃、会所の入口の階段前で小さな揉め事が起きた。配給の列に割り込んだと、男が男の襟を掴んでいる。彼ら周りを人々が取り囲み、叫びにも似た大声を上げていた。やがてその叫びは「誰が正しいか」ではなく「誰が勝つか」に変化する。
ドゥルマは階段に上から群衆を見下ろし、声を張った。
「離せ。列を守れ。守れば配る。崩せば止める」
響き渡ったドゥルマの声に驚き、群衆は一瞬にして静まり返り、動きを止めた。その瞬間、巡回が男たち二人を引き離す。掴まれていた男は唾を飛ばして抗議し、掴んでいた男は肩を上下させて息を荒くする。どちらも、自分の空腹を正義に見せたかっただけだ。群衆がドゥルマの声に瞬時に反応し、従うのは、彼が会所の顔として、すべての権限を握っていることを知っているからだ。彼に歯向かえば、配給も証書も手に入らなくなる。
「札が足りないんだ。うちだけじゃない。皆そうだろ」
今度は背後の窓口から怒声が漏れてくる。そして怒声は、すぐに泣き声へと変わった。ドゥルマは振り返り、窓口の脇へ進む。怒声の主は男で、頬がやけに荒れている。粉まみれの帽子のを手に握りしめ、男の背後には子を背負った女が続いていた。女の背に顔を押し付けている子どもは、眠っているのではない。力尽きたように鳴き声を上げる力も残っていないといったように、じっと一点を見つめていた。女の手には、正規の札よりもいくらか薄い紙切れが握られている。その紙切れは手のひらの汗で波打っている。
「この札は誰が出した?」
ドゥルマが窓口で怒声をあげていた男に問うと、男は黙った。男はごくりと唾を飲み、早口で言った。
「会所窓口の男だ。だから俺はここに並んで、順番を守った。なのに札が違うと言う」
ドゥルマは女の差し出した札を受け取り、指で折り目を確かめた。印の位置がずれている。ずれているのは窓口の不手際か、男のすり替えか、それとも誰かの悪意か。悪意はいつも「誰か」の形で潜んでいる。
「順番を守って並んだのは正しいことだ。だが、この札は正規のものではない。正しくなければ配給することはできない」
「ではどうしろと言うんだ!」
男が声を上げた。周囲の目が集まる。人の目が集まるところでは誰かが正義を演じ始めるのが常だ。ここで演じられる正義は、刃より鋭い、つまり、危険だ。
「並び直せとは言わない。窓口を変える。こっちへ来るんだ」
ドゥルマは男を壁際へ誘導し、別の係に目配せした。ここには目配せだけで動く者がいる。ドゥルマからの目配せで指示を受けた係が別の机で新たな札を作り直し、手早く男へ渡す。その間、男は何度も周囲を見た。見られていると思うからだ。女もまた、同じようにキョロキョロと周囲を気にしている。会所では、助けられることさえ危険になるからだ。
「声を上げるな。声は列を壊す。列が壊れれば、札より先に巡回が来るからな」
男は返事をしなかった。代わりに女が小さく礼を言いかけたが、ドゥルマはそれを指先で止めた。ほどなく、痩せた男が窓口へ滑り込んできた。帽子を脱がず、視線だけが落ち着かない。男は紙片を差し出し、かすれた声で言う。
「証が要る。仕事があるんだ。証がないと、門を越えられない」
門はこの囲まれたパリと外の世界との境界だ。そして噂の集まる場所。境界を越える者は、越えるだけで疑われる。ドゥルマは男が手にした紙片に目を落とした。住所、職、推薦の署名。推薦の署名は薄く消えかかっていた。
「誰の推薦だ」
「……向こうの、パン屋の主人だ」
男が視線を逸らした。一瞬の沈黙が場を固くする。背後で誰かが囁いた。
「怪しい」
ドゥルマは男の手を見た。指先がひどく荒れている。この荒れた指先は働いた者の証だ。だが、それだけで正しさは測れない。だが働く場を閉ざしてしまえば、この男は空腹に耐えなけらばならない。空腹はやがて誰かに刃を向けることになるだろう。
「推薦人を連れて来い。今日中に」
男が顔を上げた。抗議が喉元まで来ているのが分かる。ドゥルマは続けた。
「連れて来られないなら、仕事の話は白紙だ。今ここで怒鳴るな。怒鳴れば、門が永遠に閉ざされることを忘れるな」
男は歯を食いしばり、紙片を握り直してその場を去って行った。去り際の背中はとても小さい。その背中を誰かが勝利を感じながら見送る。そんな勝利の感覚が、いっそうパリの街を冷たい空気で覆いつくしていった。
男が去ると、またすぐに別の者がやって来て、窓口で紙片を差し出す。紙片の端には、誰かの名が走り書きされていた。密告だ。そこに書かれた文字は整っていない。
「隣の男だ。夜に外を歩いていたからおかしいと思ったんだ。そうしたら、路地裏で誰かに何かを囁いていたんだよ」
差し出したのは若い女で、声が震えている。震えは恐怖の震えではなく、正義で高揚している震えだ。正義を握りしめた者は、秤の片側だけを重くする。ドゥルマは紙片を受け取り、名の綴りを確かめた。綴りがひとつでも違えば、別人になる。別人となれば、取り返しがつかない。彼は鉛筆で曖昧な一文字を書き直し、女へ返した。
「署名が要る。そして信頼できる証言が必要だ。ここに置いて行くな」
女は不満げに唇を噛んだ。ドゥルマは机へ戻り、帳面に細い線を引いた。線の左に名を。線の右に手順を。線を引くことでしか、彼は街の重さを量れない。見えない秤は、いつも手順の上に置かれている。
正午、委員会の部屋からドゥルマに呼び出しがかかった。廊下の人波をかき分け、彼は扉の前でコートの襟を直す。襟を直すのは癖ではない。内側の疲れを見せないための儀式だ。体制の顔であるドゥルマには崩れた顔は決して許されないのだ。部屋の中は一層重たい空気が漂っていた。机の周りには数人の委員たちが立ち、中央には帳面と印が置かれている。そこでは誰が困っているかよりも先に、誰が危険なのかが問われる。
「昨夜、門のところで揉めた。通行証が偽物だという」
ひとりかの委員から報告が出る。偽物という言葉は便利だ。皆が自分を守るために誰かを差し出す。
「門の警備は厚くする。だが、列の中では決して刃を抜くな。そこで刃を抜けば、その刃を見た者が次の刃(やいば)を向けてくる」
誰かが小さく舌打ちした。ラクロワだ。彼は机に身を乗り出し、紙束を一つ持ち上げた。
「刃を抜かないから、偽物が増えるんだ。例外が増えれば共和国を穴だらけにするぞ」
穴だらけ、という言葉は重い。見えない綻びだ。綻びは糸の内側から始まり、気づいたときには布全体が弱っている。ドゥルマは反論を飲み込み、紙束の端を揃えた。
「通行証の確認は手順で行う。手順は例外を減らす。例外を減らすには、まず手順を増やせばいい」
彼が言うと、別の者が深いため息をついた。ここでは言葉にならない感情が渦巻いている。ただ確実なのは、誰もが自分の中に“正義”を纏っている。
会議が終わり、ドゥルマが机へ戻ると、若い係が、口を半分だけ開けたまま言う。
「委員殿、回廊の仕立て屋から納品が届いています。糸が足りないとの伝言も」
糸が足りない。糸が足りなければ縫い目は荒くなる。縫い目が荒くなれば腕章が乱れる。腕章が乱れれば巡回が苛立つ。苛立った巡回は列の中の群衆に当たる。そして列が揺れ、そこから噂が走り出し、噂は会所に跳ね返ってくる。会所に届いた噂は、誰かの名を探す。そしてーー。
影の輪郭
ドゥルマは伝言を帳面に写し、短く返事を書いた。返事は簡単だ。急ぎで、可能な範囲でやれば良い、と。窓口の係たちの視線が、彼の手もとに集中する。仕立て屋の名が出たからではない。会所の外へ出る紙が、誰の署名で出るかを皆が見ているのだ。署名はただの名ではない。ここでは誰かを、何かを刺すために整えられることもあるからだ。その視線の中に、いつやって来たのか、委員ラクロワの姿が含まれていた。いつの間にか近づく足取りが、彼の特徴だ。彼は帳面の端を覗き込み、鼻先で笑う。
「回廊は忙しいらしいな。噂だらけで忙しい。お前の家の食卓でも、そう言っていたか?」
ラクロワの言葉はすでに刃の形をしていた。彼は、家の中の会話でさえも、その言葉が会所へ届くことを示したかったのだ。会所の壁は厚いのに、言葉はいとも簡単に入り込んでくる。ドゥルマは帳面を閉じ、返事をしなかった。返事をすれば、ただの冗談が会話になることを恐れていた。
午後の光が窓硝子を斜めに切り、机の上の印を鈍く光らせた。印は静かに待っている。押されるのを待つだけの小さな箱の中身が、街の大動脈を握っている。
「疲れているな」
ラクロワが、ふいに言った。視線はその鋭さを維持している。相手の弱りを見つけた者の目だ。
「疲れていない者などいない」
ドゥルマは即座に返した。返したあとで、こめかみの痛みが強くなるのを感じた。ラクロワは机の上の巡回表を覗き込み、指で警備の薄い時間帯を叩いた。
「ここが薄い。誰のためだ?誰かのために薄くするなら、誰かのために厚くする者もいるだろう。そういう不平等が噂を生むんだ。すぐに噂が会所に届く。そうだろ?」
ドゥルマは息を吐かずに返した。
「噂を生むのは不平等ではない。空腹だ。空腹を見ない正義は、刃を振り回しているだけだ」
ラクロワの笑みが一瞬にして消えた。消えた笑みの跡に、冷たい視線だけが残る。その冷たさは、やがて告発という恐ろしい線になる恐怖を感じさせていた。
「刃は必要だ。共和国の秩序を守るのは、刃だ。ほころびを繕うだけの針ではない」
針と糸で守れるものがあるはずだ。ドゥルマは信じていた。だが、いまのパリでは、綻びが噂の糸に絡め取られ、絡め取られた糸はやがてほどけない結び目になる。彼はラクロワから視線を外し、廊下の長い列を見た。列はまた何かで揺れている。あの揺れが大きくなる前に、誰かが整えなければならない。整える役目を投げ出してしまえば、別の者が刃を持って押さえつけるだろう。そしてパリの街は裂ける。裂けた布は、どれほど縫っても、もう元の形には戻らない。
「私は任務を果たす。それだけだ」
ドゥルマはそう言い、自分の机へ戻った。重たい足取りと少し前かがみになった背中は、背負う紙の束の重さを感じさせる。紙の束の中には、愛する娘の暮らしも含まれているからだ。ラクロワは廊下を歩きながら、振り返らずに言った。
「ドゥルマ。お前の背中は、いつも正しい顔をしている。だが背中にも影はできる。ひとたび影ができたらーー誰かが必ずそこに光を当てる。忘れるな」
そう言い残し、彼は去っていった。ドゥルマはラクロワの言葉が冗談ではないことを知っている。だが、足を止めているときではない。足を止めれば、ラクロワの言う“影”は一層濃くなるだろう。そしていつか、名が呼ばれる。ドゥルマは帳面を開き、次の署名欄に線を引いた。線はまっすぐで、迷いがない。迷いがないように見せるのも、委員としての技術だ。
夜、胸の奥の疲労を沈黙という箱に閉じ込めたまま、家の扉を開ける。台所の火は落ちていた。クレールは灯りを小さくし、部屋の奥で眠っている気配がする。ドゥルマは音を立てないようにコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。縫い目の整ったコートが、暗い部屋の中でやけに黒い光を放っているように見える。水差しで手を洗うが、指先にこびり付いたインクの染みは薄くならない。この染みは、今日も帳面に多くの名を刻んだ証だ。そこには救われた者もいれば、密告により呼び出された者もいる。救いと呼び出しは同じ印から生まれる。印はまるで秤だ。見えない秤が、誰かの重さを機械的に測り続ける。
娘の部屋の前で、彼は足を止めた。戸板一枚の向こうに、娘の息がある。息があるだけで、今日の紙の束が少し軽くなる。だが軽くなった気がするだけで、実際に軽くことはない。明日もあの長い列は延々と続き、噂は町の中を走り続ける。彼は扉に手を触れず、ただ低く呟いた。
「回廊は噂が早い。噂は会所に届く」
呟きは届かない。娘の眠りを乱すことなく、彼は戸締まりをもう一度確かめ、寝室へ向かった。寝室の引き出しの奥に、小さな針箱がある。箱は古く、蓋の角がすり減っている。2年前に亡くなった妻が使っていた針箱だ。妻の名を口にするのは何も危険ではないはずなのに、彼は一切口にしなくなった。名を呼ぶことが、誰かの線になる時代だからだ。妻の名は、呼ぶためではなく守るために胸にしまう。
彼は針箱をそっと開け、残った糸を黙って眺めた。これが眠る前の習慣だ。針箱を閉じようとして、彼はふと指を止めた。箱の内側に、淡い花の模様が残っている。妻が笑いながら貼った紙だ。笑い声の記憶は、会所の廊下では役に立たない。役に立たないものほど、人は守りたくなるものだ。
その日、寝付かれなかった彼は、キッチンで水を一杯飲んで、ふと椅子に掛けられたコートに目をやった。袖口から白い糸が一本、ほつれて垂れ下がっていた。ほつれは小さいものだったが、小さいほつれほど、見つけた者は大きく騒ぎ立てる。会所の委員のわずかなほつれは、怠慢の証にされてしまう。彼は妻の針箱から針1本と白い糸を取り出すと、黙って一針だけ縫った。縫い目は目立たない。家族を守るための縫い目だ。
結び目を整え、余分な糸を切る。そのときドゥルマの脳裏には、娘の指先がよぎっていた。幼いころ、クレールが指に糸を絡ませて泣いた夜がある。彼はその手を握り、ほどき方だけを教えた。慰めの言葉は少なかったと記憶している。言葉より手が先にほどき方の方法をやって見せたのだ。そして、今も同じだ。言葉で守れないものを、手順と縫い目で守ろうとしている。
だが縫い目は、どこまで行っても布の上の小さな線にすぎない。街全体を覆う布が裂け始めたとき、自分の細い針一本で縫い目を整えることはできるだろうか。足りないと知りながら針を置くことはできない。それが父であり、監視係であり、この時代の体制を維持する委員であることの強さと、そして弱さだった。
眠りに落ちる前、彼は自分の背中に見え隠れする影のことを考えていた。その影が濃くなればなるほど、娘の光を遠ざけてしまうだろう。机上で押されるあの印の軽い音で、また明日、誰かの重さが測られる。ドゥルマは灯りを落とし、暗闇の中で自分の手を見た。名を守るために働いた手だ。だが、その手が、いつか誰かの名を切り取る日が来るかもしれない。そう思うたび、胸の奥で何かが沈んでゆく。いまは、沈むものを言葉にしない。
沈黙だけが、彼の家の秩序だった。
【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第3章 列のざわめき】の更新予定は2/8です。


