
この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
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全体のあらすじ
現代ウィーンで歴史雑誌の編集者として働くソフィアは、エリザベート特集の取材中、宛名が自分の名になっている未投函の手紙に触れ、十九世紀へ落ちる。
身分のない異邦人として宮廷に入り、優秀さを買われて皇后付の記録係となった彼女は、皇太后ゾフィーの支配、皇帝フランツとの溝、政治に翻弄される日々を、紙の上に正確に残していく
だが未来を知る者として、避けられない悲劇を前に、介入すべきか、寄り添うべきかが彼女を思い悩ませる。 言葉を預かり、沈黙を翻訳しながら、皇后の「幸福」の行方を追う旅の果ては、はたして――。
主な登場人物
▪ソフィア・フリッツ
ウィーンの歴史雑誌編集者。ある出来事を境に、過去の宮廷と関わることになる。観察力と文章力を武器に、時代の規律の中で自分の立ち位置を探す。
▪皇后エリザベート
オーストリア皇后。自由を求める気質と、宮廷の制度のはざまで揺れる。人々の視線の中心にいながら、静かな孤独を抱える。
▪皇帝フランツ・ヨーゼフ
オーストリア皇帝。帝国の責務を背負い、秩序と務めを優先する。皇后との距離を、言葉ではなく態度で示す人物。
▪皇太后ゾフィー
皇帝の母。宮廷を牛耳る実力者。慣習と規律を重んじ、皇后のふるまいにも厳格な目を向ける。宮廷という仕組みの強さを体現する存在。
▪皇太子ルドルフ:
皇太子。聡明で感受性が鋭く、周囲の大人たちの意図を見抜こうとする。物語の緊張を静かに高めていく鍵となる人物。
▪エレナ・ケーニッヒ
ソフィアの上司。締切と現実の厳しさを知る編集者で、仕事の規律でソフィアを支える。
▪シモン・ザムロック
ソフィアの先輩編集者。文章と事実の距離感に敏感で、同僚としての信頼が厚い。
▪ミラ・ハース
ソフィアの後輩編集者。編集部の空気を軽やかに動かす存在。
▪書記官長
宮廷の記録を統括する人物。記録の価値を重んじ、宮廷側の秩序を象徴する。
▪家政長
宮廷の運用を司る管理者。宮廷生活の現実を支える存在。
▪侍女頭
皇后付の侍女たちを束ねる。礼節と規律を重んじ、周囲の目を意識して動く。
▪主治医
宮廷の医療を担う医師。時代の常識と手順に基づき、宮廷の「当たり前」を示す存在。
▪乳母
子どもの世話を担う女性。慣習に従い、役目を果たすことを第一とする。
前回のストーリー
第2部 ハンガリーの風
第8章 抜擢
机上の恩賞
ブダから戻った馬車の車輪は、石畳の目地を数えるように揺れた。窓の外に見えるのは同じウィーンの街並みなのに、空気だけが別の国に変わっている。夏の匂いが薄く、喪の黒が肌に貼りつく。皇后の隣席に控えた侍女たちは、誰も声を出さない。泣くことも、慰めることも、もう許されない時間が始まっていた。
ホーフブルクの回廊に入ると、靴底の音が急に尖った。高い天井が音を跳ね返し、沈黙の輪郭をはっきりさせる。ソフィアは皇后の横顔を盗み見た。頬は削げ、目だけが乾いている。あの小さな棺を抱えた夜から、皇后の時間は止まったままだ。
回廊の角を曲がった先、子ども部屋へ続く廊下が見えた。扉の前に、見慣れた乳母が立っている。視線だけが交わり、乳母は何も言わずに目を伏せた。ギーゼラが眠っているのか、泣いているのか。知る権利があるはずの母が、そこへ入れないことだけが確かだった。
「ソフィア・フリッツ」
名を呼ばれたのは、皇后の私室へ続く角を曲がったところだった。皇太后ゾフィーの側近、灰色の髪をきっちり撫でつけた男が、廊下の光の中に立っている。礼をするより先に、手元の紙束が目に入った。厚い。封蝋の跡がいくつも重なっている。
「こちらへ。書記官局からの命である」
ソフィアは喉の奥が乾くのを感じた。皇后の側へ戻るべきか、命令に従うべきか。その迷いを見越したように、男は1歩だけ近づいた。
「皇后陛下の侍女であっても、帝国の文書の前では身分は同じだ」
身分が同じ。言い換えれば、紙の上では誰も守られない。ソフィアは視線を落とし、淡々と頷いた。すれ違いざま、別の侍女が小さく囁いた。
「引き抜かれたのね。書記官局に」
羨望ではない。憐れみの混じった声だった。引き抜かれるとは、網の目の外へ出ることではない。網の中心へ引き寄せられることだ。ソフィアは返事をせず、足取りだけを一定に保った。
書記官局の部屋は、宮廷の私室とは匂いが違う。インク、糊、乾いた革、そして人の息が薄い。机の上には、ブダの旅程表、支出帳、医師の報告、護衛の配置、葬送の記録が積み上げられていた。どれも「出来事」を「処理」に変えるための紙だ。
壁際には、帳簿が並ぶ棚がある。背表紙には、年と用件だけが短く記されている。恋文の背表紙のように薄情で、だからこそ強い。ソフィアは背を伸ばし、机に歩み寄った。
「随行記録の総括を任せる」
若い書記官が言った。若いのに目が疲れている。机の端に、赤い封蝋が置かれていた。印章は皇太后の紋。ソフィアは自分の手が無意識に封蝋へ伸びそうになるのを止めた。火に近づけば、痕跡が残る。
「明日中に清書が必要だ。皇帝陛下へ回す。皇太后殿下にも写しを」
「写しは、私が作るのですか」
「当然だ。お前は字が整っていると聞いた」
褒め言葉の形をした鎖だ。書記官は引き出しから見本帳を出し、頁を開いた。そこには、同じ型で作られた弔いの総括が並ぶ。どの報告も、痛みの場所が同じところで切り揃えられていた。涙は「御疲労」、怒りは「御不快」、絶望は「御衰弱」に置換される。語を変えれば、出来事は角が取れる。角が取れた出来事は、責任も取られない。
「この型に沿え。余白を作るな」
余白を作るな。編集者として耳慣れない命令だった。余白こそ読者の呼吸になる。だがここでは、余白は刃になる。そこに本当の気配が滲むからだ。
紙束の1番上に、皇后の名があった。エリザベート。そこに続くのは、母としての言葉ではない。皇后、随行、面会、許可。ソフィアは胸の奥で何かが擦れるのを感じた。悲しみが名詞に削られていく音だ。
若い書記官は紙束の端を指で弾いた。
「泣いた話は要らない。祈った話も要らない。必要なのは、国が恥をかかない形だけだ」
その言い方が、この部屋の掟だった。ソフィアは小さく頷いた。頷きながら、心の中で校正記号のように線を引く。消される言葉、残す言葉。編集の癖が、ここでは生存の癖になる。
総括の欄
総括書の書式は決まっていた。日付、場所、出納、異常、対応。欄があることで、書き手の感情は逃げ場を失う。ソフィアはペン先を整え、まず日付を書いた。1857年5月。ブダ。発熱。嘔吐。痙攣。呼吸停止。
言葉が並ぶほど、現実が薄くなる。ソフィアは一度ペンを置き、指先で紙の端を押さえた。滑って逃げないように。逃げるのは紙ではなく、自分の心だ。
医師の報告には、当然のように「不可抗力」が書かれている。宗教的な言い回しも混じっていた。祈りは、手順を正当化するための布になる。ソフィアはその布を剥がしたい衝動に耐え、代わりに「経過」を丁寧に並べた。何時に誰が来て、何をしたか。何が遅れ、何が間に合ったか。
護衛の配置表には、皇后の私室の前に立った者の名もある。あの夜、扉の外に誰がいたか。名前が並ぶと、責任の所在は薄まっていく。紙は責任を分散させる装置でもある。ソフィアは1人ひとりの名を見つめ、名が人間であることを忘れないようにした。
面会の欄だけが不自然に短い。皇后が子に触れた時間は、数行で終わっている。終わらせたのは誰か。答えは紙が知っている。許可印が押されていない。印がない時間は、存在しないことになる。
ソフィアは草稿の端に、誰にも見せない小さな符号を入れた。行頭の点の位置、段落の切れ目。普通の書記官が読めば癖にしか見えない。だが自分には読める。面会の実際の時刻、皇后の手が震えた一瞬、皇后が「触れていい」と言われたときに息を吸い込んだ音。紙の外へ逃がすには、まず紙の内側に隠し部屋を作るしかない。
そこへ、別の足音が入ってきた。執務室から来た伝令だった。彼は書記官へ封を渡し、目で促す。封は皇帝の紋で閉じられている。書記官が開くと、短い指示が出た。
「皇帝陛下は、喪の経緯を把握しておられる。だが、皇后陛下の御心痛については、過度に触れるな。国家の不安を誘う」
国家の不安。悲しみが国家に換算されるとき、個人の席は消える。ソフィアはその紙を覗き込み、皇帝の筆跡の硬さを見た。硬さは冷酷ではない。背負いすぎた者の癖だ。それでも硬い言葉は、人を切る。
ソフィアは総括の中に、皇帝の行動を讃える文を差し込むよう命じられた。医師を召したこと、祈祷を手配したこと、葬送を整えたこと。どれも事実だ。だが事実の列は、皇后の息を奪ったものも同じ列へ紛れ込ませる。
彼女は筆を止めたまま、ほんの数秒、目を閉じた。現代の編集部なら、同じ事実でも見出しを変える。視点を変える。誰のための紙かで、文字の並びは変わる。ここでは視点が固定され、固定された視点が権力を守る。
扉が軽く叩かれた。
「入れ」
返事をしたのは書記官だった。入ってきたのは、皇太后の女官長だった。視線は紙束の上を滑り、ソフィアの手元で止まる。
「あなたが、ソフィア」
「はい」
「皇后陛下の私室へ近づきすぎないように」
声は低い。怒りではなく規則だ。規則は感情より重い。
「喪は国事。慰めは私事。私事は、許されない」
ソフィアは唇を噛む代わりに、指を紙の角へ押し当てた。角が少しだけ指に食い込む。痛みは自分の中に収まる。
「私は記録係として命を受けました。記録のために、必要な聞き取りは」
「必要かどうかは、こちらが決める」
女官長は言い切った。そうして、机の端の赤い封蝋を指先でなぞった。蝋はまだ柔らかい。最近使われた証拠だ。
「清書の前に、草稿を見せなさい」
「草稿を?」
「当然です」
紙の上でさえ、自由はない。ソフィアは頷き、女官長が去る背を見送った。扉が閉じる音が、布で包まれたように鈍い。鈍さが恐ろしい。叫びよりも、確実に人を縛っていく。
書記官は小さく咳払いをした。
「余計なことを書くな。余計なことを考えるな」
彼の忠告は善意の形をしていた。だが善意もまた、宮廷では規則の側に立つ。ソフィアはペンを取り直し、欄の空白へ言葉を収めた。収めながら、収めきれないものがあることを知りながらーー。
総括の末尾に「備考」の欄がある。欄の大きさは親切に見える。実際は、書き手を試す罠だ。ここに何を書くかで、どちらの陣営に立つかが露わになる。皇后は子と引き離された。皇后の意思は尊重されなかった。言葉にすれば、それは責めになる。責めになれば、矛先は皇后へ戻る。責められるのはいつも弱い側だ。
ソフィアはそこに、短い一文を置いた。
――皇后陛下の面会は、医師の指示により制限された。
嘘ではない。だが真実でもない。制限したのは医師だけではない。ソフィアはその曖昧さを、喉の奥で飲み込んだ。編集者としては不誠実だ。生き残る者としては妥当だ。女官長へ草稿を差し出すと、彼女は備考欄を見て、ほとんど表情を変えずに頷いた。
「無難ね」
無難。宮廷で最大の賛辞だ。ソフィアは無難の裏に、皇后の息が消える音を聞いた気がした。無難は、誰も救わない。救わない代わりに、誰も罰しない。罰しない代わりに、誰も抱きしめもしない。
書記官が清書の紙を置いた。厚い紙だ。上等な紙ほど、嘘は滑らかに滲む。ソフィアは筆圧を少し落とし、文字を整えすぎないように気をつけた。
清書が終わると、書記官は蝋の火を近づけた。封蝋は、ただの作業ではない。どの文書が「内側」へ回り、どの文書が「外側」へ出るかを決める境界線だ。ソフィアは赤い滴が紙へ落ちる1瞬、喉が勝手に鳴るのを感じた。人の死が、音もなく封じられていく。
封を押す直前、年配の書記が棚から1冊の台帳を引き抜いて見せた。背表紙には「宮廷会計局控え」とある。宮廷会計局は、出納と手配を数字で縛る部署だ。後から照合できるよう、同じ内容を別の帳面にも残す。その控えが、静かに積み重なっていく。
「上へ上げる文書は、形が整うほど安全に見える。だが後で真実を照らすのは、こういう控えだ。余計な飾りがなく、印と数字が残る」
年配の書記は、台帳の背を指の腹で叩いた。
「お前の字は整いすぎる。整いすぎた字は目立つ。目立つと、守るべき相手が変わる。相手が変われば、扱いも変わる」
ソフィアは小さく礼をした。清書の余白を1度だけ見つめ、何も書かずに目を伏せた。余白は作れない。だが余白がない紙が、真実だとも限らない。
封蝋が固まり、印が押される。皇太后の紋が紙に沈む。沈んだ紋は、同時に「誰の責任か」を紙の外へ逃がす。ソフィアは印の輪郭を見て、これが国を守るための合理であることも理解した。理解した1瞬、自分が共犯になることも理解した。
封じるための手
夕刻、清書は皇太后の印で封じられ、複写は皇帝の執務机へ回った。紙束が運び出されると、部屋の空気が少しだけ軽くなる。軽くなった分、ソフィアの身体が重くなる。背中に見えない砂袋を背負わされたようだった。
書記官局を出ると、回廊の窓から夕陽が差し込み、床の模様を長く引き延ばしていた。そこに自分の影が混じる。影はどこまでも伸びるのに、影の持ち主は1歩しか進めない。ソフィアは足を止め、呼吸を整えた。ここから先は、命令ではなく選択になる。
鐘が鳴った。喪の鐘だ。音は、どこにも行き場がなく、宮殿の石に吸い込まれていく。ソフィアは皇后の私室へ向かった。選択には必ず代償がある。代償の形が分からないとき、恐ろしさは倍になる。
扉の前には侍女が立っていた。目が合うと、僅かに首を振られる。入るな、という合図。ソフィアは立ち止まり、手元の紙切れの感触を確かめた。書記官局で使い残した端の切れ端。持ち出したこと自体が規則違反になり得る。
そのとき、扉の内側から声がした。
「ソフィア、入って」
呼ばれたのは名前だった。侍女が驚いた顔をして、扉を開けた。私室は薄暗い。カーテンが閉じられ、空気が昼のまま止まっている。皇后は窓辺に座り、手の中で何かを弄んでいた。小さな蝋の欠片だ。
「今日、あなたは呼ばれたでしょう」
「はい」
「私の言葉は、また紙に奪われたのね」
皇后の声は静かだった。静かすぎて、怒りの行き場がない。ソフィアは膝を折り、視線を低く保つ。
「奪われました。だから、奪われない場所を作りましょう」
皇后の指が止まった。
「場所」
「紙の外です。誰にも渡さない言葉の場所。封蝋で閉じれば、破られたことが分かります」
皇后は蝋の欠片を光へかざした。薄い赤が、指の間で透ける。
「封じた言葉は、誰に届くの」
「今夜は、今の皇后陛下のためだけにです。でも、その言葉は陛下、あなたが封を切れば、いつでもあなたの胸に届きます」
皇后は眉を僅かに寄せた。理解ではなく、試す顔だ。
「私は、明日も同じ人間でいられるの」
「同じではありません。けれど、変わったことは、皇后陛下のせいではありません」
ソフィアは言い切ってしまった。言い切るのは危険だ。だが皇后の目は、危険を必要としている目だった。安全な言葉は、もう届かない。
皇后は指先で唇を押さえ、ほんの1瞬だけ、幼い仕草を見せた。ソフィアは懐から小さな紙片を出して、エリザベートに差し出した。皇后はそれを受け取り、指先で紙の繊維を確かめるようになぞった。
「何を書けばいいの」
「なんでも、陛下の思うままに」
「娘に……」
皇后の声はわずかに震えていた。悲しみの宿るエリザベートの瞳には、旅先で失った幼いゾフィの面影が今もなお焼き付いて離れない。静かにペンを走らせる彼女の瞳には孤独が浮かんでいた。
ソフィアは卓上の燭台に火を移し、小さな匙で蝋を温めた。赤い滴が、とろりと紙の角へ落ちる。熱の匂いが立つ。皇后は印章を探し、躊躇したまま手を止めた。
「この印章は……、ほんとうの私ではない」
「では、代わりに、陛下の髪を1本」
「髪を?」
「印の代わりになります。誰の言葉か、あなた自身が知っています」
皇后はゆっくりと髪を1本抜き、蝋の上へ置いた。赤に金色が沈む。ソフィアは息を止めた。これが反逆に見えるか、祈りに見えるか。その判断は他人に委ねられている。蝋が固まるまで、二人とも言葉を出さなかった。沈黙は罰ではなく、共同作業の時間だ。
皇后は封じた紙片を胸の辺りへ引き寄せた。
「あなたは、何を知っているの」
質問は刃だった。ソフィアは答えを選ぶ。真実を守るか、人を守るか。未来を知っていると告げれば、皇后をさらに孤独にする。告げなければ、自分だけが重さを抱える。
「私が知っているのは、あなたが一人で耐えるには、ここは狭すぎるということです」
皇后は視線を落とし、低く呟いた。
「狭いのは、部屋ではないわね」
ソフィアは頷いた。頷きの意味だけを共有する。言葉にすれば、紙に奪われる。そのとき、扉の向こう側で、誰かの靴音が止まった。続いて、控えめな咳払い。監視の気配は、私室の中にまで入り込む。ソフィアは火を消し、蝋の道具を素早く布で包んだ。
「今日はここまでにしましょう」
皇后は封じた紙片を袖に隠した。袖の内側こそ、今夜の国境だった。ソフィアが退出するとき、皇后は背中に向かって囁いた。
「あなたの名前を呼べるのは、今のうちだけかもしれない」
ソフィアは振り返らなかった。廊下に出ると、さっきの側近が柱の陰にいた。見張りではない、という顔をしている。ソフィアが足音を一定に保ちながら、歩幅を変えず、側近の前を通り過ぎた直後だった。別の女官が彼女の道を塞いだ。女官長の部下だ。扇のような帳面を手にしていた。
「書記官局から戻ってたのね。袖を見せて」
語尾は柔らかかったが、その柔らかさには逃げ道がない。ソフィアは息を置き、袖口を差し出した。内側に何もない顔を作る。視線だけが手先をなぞり、女官は満足したように退いた。
回廊の角を曲がり、人気のない踊り場へ入ると、ソフィアは懐の内側を探り、薄い紙片を確かめた。皇后が封じたのとは別の一枚。自分のためのメモだ。総括の草稿に埋めた符号を、解読できる形で残しておく必要がある。
ソフィアは壁の陰で、短い文を書いた。文字は整えない。整えると、誰かの目に引っかかる。乱れた字は、ここでは唯一の迷彩になる。
――面会は許可ではなく、時間で奪われる。奪われた時間は、言葉でしか戻らない。
自室へ戻るまでの道は長かった。距離が長いのではない。途中の扉が増えたのだ。誰が鍵を持ち、誰が合図を送るか。ソフィアはそれを数え、数えた数を忘れるように努めた。覚えていることは、いつか吐かされる。
小さな寝台の脇で、彼女は糸で包んだ紙片を靴の中敷きの裏へ滑り込ませた。もはや身体に近いほど安全ではないからだ。だが、遠ければ、紙は奪われる。奪われる前に、自分が見失わない場所を選ぶしかなかった。
蝋の匂いが指先に残っている気がして、ソフィアは何度も手を洗った。水は冷たく、冷たさが現実を戻す。鏡に映った自分の顔は、編集部の蛍光灯の下の顔よりも青い。それでも目だけは、まだ文字を追える。
明日になれば、今日の総括は「正しい報告」として棚に収まるだろう。棚に収まった瞬間、誰かの人生は動かせない史実になる。ソフィアは濡れた手を布で拭き、息を吸った。紙の外に作った場所が、たったひと夜でも皇后を支えるなら、自分の共犯は無駄ではない。
廊下で靴音が止まった。扉の向こうに、誰かがいる。咳払いではない。呼吸だけが聞こえる。ソフィアは灯を落とし、闇の中で目を開いたまま、次に来る命令を待ったーー。
【封蝋-皇后の侍女になった編集者が見た19世紀│第2部 ハンガリーの風 第9章 政治が居場所を奪う】の更新予定は2/28です。


