【ブログ小説】封蝋-皇后の侍女になった編集者が見た19世紀│第1部 硝子の宮廷 第3章 16歳の花嫁

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

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現代ウィーンで歴史雑誌の編集者として働くソフィアは、エリザベート特集の取材中、宛名が自分の名になっている未投函の手紙に触れ、十九世紀へ落ちる。

身分のない異邦人として宮廷に入り、優秀さを買われて皇后付の記録係となった彼女は、皇太后ゾフィーの支配、皇帝フランツとの溝、政治に翻弄される日々を、紙の上に正確に残していく

だが未来を知る者として、避けられない悲劇を前に、介入すべきか、寄り添うべきかが彼女を思い悩ませる。 言葉を預かり、沈黙を翻訳しながら、皇后の「幸福」の行方を追う旅の果ては、はたして――。

主な登場人物

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ソフィア・フリッツ
ウィーンの歴史雑誌編集者。ある出来事を境に、過去の宮廷と関わることになる。観察力と文章力を武器に、時代の規律の中で自分の立ち位置を探す。

▪皇后エリザベート
オーストリア皇后。自由を求める気質と、宮廷の制度のはざまで揺れる。人々の視線の中心にいながら、静かな孤独を抱える。

▪皇帝フランツ・ヨーゼフ
オーストリア皇帝。帝国の責務を背負い、秩序と務めを優先する。皇后との距離を、言葉ではなく態度で示す人物。

▪皇太后ゾフィー
皇帝の母。宮廷を牛耳る実力者。慣習と規律を重んじ、皇后のふるまいにも厳格な目を向ける。宮廷という仕組みの強さを体現する存在。

▪皇太子ルドルフ
皇太子。聡明で感受性が鋭く、周囲の大人たちの意図を見抜こうとする。物語の緊張を静かに高めていく鍵となる人物。

エレナ・ケーニッヒ
ソフィアの上司。締切と現実の厳しさを知る編集者で、仕事の規律でソフィアを支える。

シモン・ザムロック
ソフィアの先輩編集者。文章と事実の距離感に敏感で、同僚としての信頼が厚い。

ミラ・ハース
ソフィアの後輩編集者。編集部の空気を軽やかに動かす存在。

書記官長
宮廷の記録を統括する人物。記録の価値を重んじ、宮廷側の秩序を象徴する。

家政長
宮廷の運用を司る管理者。宮廷生活の現実を支える存在。

侍女頭
皇后付の侍女たちを束ねる。礼節と規律を重んじ、周囲の目を意識して動く。

主治医
宮廷の医療を担う医師。時代の常識と手順に基づき、宮廷の「当たり前」を示す存在。

▪乳母
子どもの世話を担う女性。慣習に従い、役目を果たすことを第一とする。

前回のストーリー

第1部 硝子の宮廷

第3章 16歳の花嫁

紙の秩序

 4月のウィーンは、春の匂いより先に、冬の名残を運んでくる。ホーフブルクの石壁は夜の冷えを抱えたまま、朝の陽ざしを受けても温まらない。廊下を歩く靴底が乾いた音を立て、遠くの鐘の余韻が石の中で長く伸びている。

 婚礼の日の朝は、城そのものが早起きをする。火を起こす者が動き、湯を運ぶ者が走り、花を抱えた者が壁ぎわをすり抜ける。祝福の準備に見えて、その実、事故を防ぐための準備だった。絨毯の端がめくれれば誰かがつまずく。蝋燭の火が揺れれば、顔色が悪く見える。顔色が悪く見えれば、噂が生まれる。噂はたちまちウィーンの街中を駆け巡る。

 ソフィアは記録室の扉の前で、一度だけ手袋の白い指先をを確かめた。指先の荒れは隠せない。わずかに震えている指先にぎゅっと力を入れ直す。今日の震えは失態の合図になる。彼女に割り当てられた仕事は、婚礼行事の記録だった。祝福の記録ではない。誰がどこに立ち、どの順で扉を通り、どの名がどの名を迎えたか、その運用の記録である。

 室内にはすでに紙の束が積まれていた。封緘の色が混ざり、蝋の匂いがいつもより濃い。書記官補が窓辺でペン先を整え、年配の監督役が机を叩いて配分を告げる。短い言葉と合図だけで、紙が人へ渡り、使用人たちが次々とその紙片に縛られていく光景が異様だった。

「お前は式の動線を押さえろ。教会へは同行しない。ここで、来る紙を捌く。紙が遅れれば命令を遅らせることになる。いいな」

 ソフィアは黙って頷いた。机の端には、今日の段取り表が置かれている。時間、合図、通過する扉の名。さらに、その時間に間に合わなかった場合の代替手順。幸福は一つの線ではなく、いくつもの逃げ道で支えられていた。逃げ道の多さが、宮廷の不安の深さを示しているようにも見える。

 窓の外を見ると、まだ霧が残る広場に人が集まり始めていた。男は帽子を深くかぶり、女は子どもの手を握る。婚礼は帝都の幸福の象徴で、人々に熱を与える。だが宮廷の中では、その熱は紙の束へと吸い取られていく。乱れは許されない。ソフィアは机の上に並べられた帳面を開き、最初の欄に日付を書いた。

ー―1854年4月24日。

 筆先がわずかに引っかかる。彼女は呼吸を整え、冷静を装った。ここで失敗をすれば、次の朝はない。最初に飛び込んできたのは、衣装係からの覚書だった。白い布地の追加、裾を支える手の人数、控えの針子。次に宝飾係から、受け渡しの手順が届く。続いて、教会側から礼拝順序の確認。ミサの祈りの文句そのものではなく、誰がいつ起立するか、どの席の者がどの通路を使うか、誰が誰の後ろに続くかの記録だった。信仰が中心に見える場面ですら、宮廷が求めるのは秩序だ。祈りは意味を持つが、秩序は、その祈りの意味よりも先に人を動かす。

 ソフィアは運用の手順を整え、記録した。手順は“意味”を必要としない。宮廷が必要とするのは、滞りなく終えることだけだ。彼女の頭はその仕組みを理解し、同時に、その理解が胸のどこかを冷やしていくのを感じていた。礼砲のような音が遠くで弾け、窓が微かに震えている。群衆の歓声が石壁を越えて、鈍く届く。そして礼拝堂へ向かった列の詳細が、次々と紙になって飛び込んでくる。

「皇帝、北回廊を通過」
「大公夫妻、第二扉」
「枢機卿、祭服の確認」

名が並ぶほど、帝国の顔が立つ。教会の様子が、使いの口から断片としてもたらされる。石造りの身廊、香の煙、合唱隊の声。外では旗が揺れ、兵が列を作り、馬の息が白く立つ。婚礼、帝国が多くの土地と人を抱え込んでいることを誇示する機会でもある。だが誇りは、一方で、帝国の抱える不安や恐れでもあった。

 ソフィアは婚礼行事の断片を帳面に転写しながら、胸の奥で歴史の断片と向き合っていた。彼女の知っている未来には、戦争も、崩壊も、暗殺もある。だが今の宮廷では、その未来を知らない者たちの手で、完璧な一日が作られようとしている。この完璧な一日が、後の不幸を防ぐわけではない。それでも、完璧な一日を作ることだけが、今の彼らの仕事なのだ。

 廊下では、人々の走る足音が増えてきているようだった。伝令は息を切らし、監督役は伝令に息を整える時間さえ与えることなく、指示を続ける。それを待っていては段取りが間に合わない。遅れれば婚礼が滞り責任問題に発展して仕事を失う。それどころか身分を失い、人生をも失う。責任はいつも、最も弱い者の肩にのしかかっていた。

 正午を少し過ぎたころ、コートを着た使いが息を切らして入ってきた。彼は封緘を二つ掲げ、机の上へ置いた。蝋がまだ温かい。押された紋が深い。監督役の男がそれを開け、短く命じた。

「皇后付の記録係を一人、式後の控えに回す。余計な口はきかず、記録だけ取らせろ」

 ソフィアの名が呼ばれた。彼女は自分の名が呼ばれた瞬間、室内の空気がわずかに硬くなるのを感じた。周囲の女たちの視線がソフィアに鋭く突き刺さる。嫉妬だった。ソフィアは動揺を抑えながら腕章を確かめ、呼吸を整えた。控えの回廊へ向かう途中、彼女は一度だけ礼拝堂の方向を意識した。外へ出ずとも、鐘の振動が石を通して伝わる。

視線の距離

 ソフィアは歴史雑誌の編集者だ。結婚式がどの教会で行われたか、参列者が誰だったか、どんな祝祭が街を染めたか、文章で知っていた。だが文章で知ることと、石の冷たさの中で鐘を聞くことは別だった。回廊は花の匂いで満ちていたが、花の香りの奥にワックスと汗が混じる。運ばれた花は飾りではない。視線の導線を作るための道具でしかない。宮廷の威信を守るための道具。

 ソフィアは上級侍女に連れられ、控えの間の端へ立った。顔も名も知らない者ばかりだった。

「目を上げるな。必要があれば呼ぶ。それまでは壁になりなさい」

 上級侍女の声は、絹のように滑らかで、刃のように冷たい。ソフィアは頷き、視線を床へ落とした。やがて、隣の部屋から、衣が擦れるような音が波のように押し寄せてくる。多くの女たちが動く音。立ち並ぶ侍女たちに緊張が走る。

「コルセットを」

誰かが囁き、別の誰かが続ける。

「息を……」

 隣室の扉が開いた。そこに立っていたのは、眩いばかりに美しさを放つ少女だった。幼き日のエリザベート。白い布に包まれ、髪は丁寧に整えられ、宝石の光が首筋に散っている。だが、ソフィアが注目したのは、宝石の放つ光よりも、周囲の視線を受け止め切れず、どこへ置けばいいか分からない少女の目だった。16歳の少女の体に、帝国の体裁が結びつけられていく。結び目は見えない。見えない結び目にはーーほどく術も存在しない。

 少女の頬は化粧で整えられているのに、血の気の薄さまでは隠せない。目の下に、眠れなかったであろう前夜の影がうっすらと残っていた。バイエルンの湖や森で、自由に走り回って過ごしてきたであろうその少女の目は、いまや帝国の中心で迷子になっている。この迷子の少女が、これから皇后として歩む過酷な人生を思うと、ソフィアは思わず視線を深く落とした。同情が顔に出てしまうような気がしたからだ。

 上級侍女が皇后の手に小さな花束を持たせた。ミルトスの葉が細く揺れる。花束の意味は純潔だと、現代の本に書いてあった。だが少女の手に収まった瞬間、その意味は儀礼の一部へと変わった。意味より先に、花束を持つ手元の角度が命令される。そのとき、柔らかい声が聞こえた。

「あなたは私を見ないのね」

 ソフィアは息を止めた。上級侍女が眉をひそめるのをよそに、皇后が続ける。

「皆、私を見ているのに、あなたは見ない」

 ソフィアは皇后のその言葉が自分に向けられていることを確信し、ゆっくりと顔を上げた。言葉を選んで彼女は答えた。

「恐れ多くて」

 それだけ言い、彼女は視線をふたたび床に戻した。上級侍女が割って入り、淡々と皇后の袖を整える。だが皇后は、袖を整えられながら、ソフィアのほうへ僅かに体を傾けた。

「恐れ多いというのは、悪いこと? 私は、怖がられるのが好きではないの」

 少女の声には、虚勢が混じっていた。好きではない、と言いながら、好きにならざるを得ない場所に立たされている。ソフィアは胸の奥で、エリザベートの未来のページが勝手にめくれるのを感じた。孤独、旅、別離、死。知識が濁流のように押し寄せる。だがここで未来を顔に出してしまえば、ソフィアがここで生きて行く術は失われる。

「私は記録係です。目立たぬようにと教わりました」

 皇后は小さく笑った。

「記録は、皆を救うの?」

 答えは分からない。ただひとつ言えることは、救うのは記録ではなく運用だということだ。正しい記録の運用が人を救うこともあれば、人を押しつぶすこともある。

「記録は、間違いを減らします」

「間違い……」

 皇后はふいに、ソフィアの手元を見た。インクの染み、指のひび割れ。

「あなたの手は、痛そうね」

「平気です」

「平気……。皆、平気と言うのね」

 皇后が小さく首をかしげると、上級侍女が咳払いをして視線だけで場を支配する。その視線に気づいた皇后は、少女エリザベートの顔に戻って従う。16歳の少女にとっては、従うことでしか自分を守れなかったのかも知れない。

 幼きエリザベート皇后の周囲は怒濤のように忙しくなった。入室の合図、退出の合図、祈りの合図。名を呼ばれるたびに、別の人物が前へ出る。出る者は笑顔を作り、引く者は次の笑顔を用意する。幸福の顔が、手順の顔へ変わる速度が早い。ソフィアは帳面に時間を記し、そのすべてを記録した。皇后の近くに立つ者の名を写し、贈られた品の品目を写し、返礼の順。そこにいっさいの感情は必要なかった。だが、記録されない感情ほど、暴れやすいものだ。

 やがて、皇太后ゾフィの姿が回廊の向こうに見えた。黒い衣装、動きの少ない表情。周囲が彼女を避けるように流れ、彼女だけが流れを変える。ソフィアは視線を上げずに、その気配だけを記録した。皇太后は祝福の中心に立ちながら、祝福を運用の道具として扱う人だと、彼女は歴史の記録の中で知っている。だが、目の前の気配は文章よりも重たい。

 皇太后ゾフィが幼き皇后エリザベトへ言葉をかける場面は、ほとんど聞こえなかった。声量ではない。空気が声を吸い取る。吸い取られた声は紙に残らない。そして、残らない言葉は誰からも責められることはない。それが宮廷だった。

余白に残るもの

 午後、ソフィアは別室へ通された。そこは外の喧騒が嘘のように静かで、窓からの光が薄いカーテンを通して淡く揺れていた。机の上には、すでに整理された文書の束がある。紙が整いすぎていて、逆に息が詰まる。部屋の奥から足音がした。

 軍靴の音だ。硬く、迷いがない。ソフィアは反射的に背筋を伸ばし、目を下げた。目の前に現れたのは、皇帝フランツ・ヨーゼフ。軍服の襟は高く、肩章の金糸が光る。彼は机の前で止まり、紙束に一度だけ視線を落とした。

「記録係か」

「はい」

「今日の記録は、誰の手を通る」

 質問は短い。答えも短くあるべきだ。

「家政の監督役を通り、書記官補が清書します」

「よい」

 彼は一枚の紙を指で押さえた。

「正確であれ。余計な想像を書くな」

 釘を刺すような声だった。ソフィアは喉の奥で、言い返したい衝動を噛み殺した。想像は彼女の武器で、考察は彼女の仕事だったからだ。けれどここは1854年の宮廷―ー。

「はい」

「事実だけで足りる」

 皇帝はそう言い切った。足りる、という言葉の中に、感情の余白はなかった。余白を持つことが帝国を揺るがすきっかけにもなり得ることを、若き皇帝は知っている。幼き頃から“皇帝としての人生”を義務付けられた人間の振る舞いだった。ソフィアが机の端に置かれた別の束に目をやる。そこには皇后付の編成が記されていた。名と役割、予算、許可。幸福が制度に吸い込まれていく音が、紙の擦れる音に重なった。

「皇后は、疲れている」

 皇帝はただ一言そう言って紙束から目を離した。何を見るわけでもなく窓の外に視線を移す。だが、その視線の角度が、エリザベートの居る隣室を意識しているのだけは分かった。彼は夫として花嫁の元へ行く前に、オーストリア帝国の皇帝として、ここを通り過ぎる。

 そしてまた、皇帝に見初められた幼き少女エリザベートにも、その重しは容赦なく括り付けられる。だが、少女はまだ、自分が自分である前に、皇后としての義務が優先されることになることに、まだ、気づいてはいなかった。

 皇帝フランツは部屋を出ていった。軍靴の音が遠ざかり、静けさが戻る。ソフィアは小さく息を吐き、胸の奥の緊張を指先から外へと逃がしたつもりだったが、まだ指先がかすかに震えている。彼女は震えを隠すようにして、帳面を抱え直した。

 夕刻、控えの間に戻ると、群衆の歓声はすでに遠くなっていた。残っているのは、片づけの音と、人々の疲れた匂いだけだ。花はしおれ始め、蝋燭は短くなり、笑顔はほどけている。宿舎へ戻る廊下を歩きながら、ソフィアは窓の外を見た。夜の街には点々とした明かりが灯り、馬車が行き交う音がかすかに響いている。あの街にいる者たちは、今日の祝祭気分をよそに、明日にはまた必死でパンの値を数えるのだろう。

 部屋に入ると、同室の女が布を畳んでいた。彼女はソフィアを見て言った。

「近かったね」

 ソフィアは黙って頷いた。灯りが落ちたあと、ソフィアはとても複雑な感情に囚われていた。ここでの公式記録には、原則、形容詞を含むことは許されない。入れていい形容詞があるとすれば、天候と人数と、衣装の色くらいだった。現代であれば「皇后はどこか不安そうな表情をしていた」と記録したい場面でも、ここでは「皇后、控えの間、深呼吸する、窓の外を見る、椅子に座る、沈黙」と書く必要がある。

 けして心の中は形容しない。すべては動作に変換して記す。心の中の感情が言葉として残されなければ、誰も責められることはない。だが、誰も責められない代わりに、誰も救われることもない。

 彼女は知ってしまった。幸福が最も脆いのは、祝福が終わったあとの静けさだ。花がしおれ、蝋が短くなり、皆が次の役割へ戻る瞬間に、少女は一人残される。その一人の時間を、この帝国の、この宮廷の、がんじがらめになった制度は守ってくれない。守るのは秩序であって、その秩序が守っているのは人ではなく帝国だ。

 ソフィアは寝床の端に小さな紙片を置いた。記録室から持ち出してはいけない公式記録の紙とは別の、古い包み紙の切れ端だ。炭の欠片で字を走らせる。歴史に介入したくなる衝動、皇后の目を見ることができない苦しさ、事実だけを書けと言った皇帝のこと、そして、痛む心。

 ソフィアは、“表へ出せない感情”を、自分だけのために紙片に残し、そっと歴史の縫い目の中へ隠しておこうと思った。感情を隠すのではない。感情が表へ出て、誰かを巻き込み、歴史の流れを乱すことを防ぐためだ。彼女自身の“歴史に介入したい”という衝動が、いつか未来のページを破ってしまわないように。

 書き終えると、紙片を二つに折った。さらに二つに折り、掌の中で小さくした。彼女はそれを誰にも見つからないよう、布団の縫い目の内側へ押し込んだ。紙はとても薄いのに、胸の奥の重さを受け止めてくれる。だからこそ、彼女は自分がまだ自分でいられるのだと思った。

 その日は、昼間の婚礼行事で気分が高揚していたのかは定かでないが、なかなか寝付かれなかった。ソフィアは、明かりを落とした暗闇の中で、じっと天井を見つめながら、幼き皇后からかけられたひと言を思い返していた。

「あなたは私を見ないのね」

 その言葉は責めではなく、素直な確認だった。自分が見られているのかどうか、自分が存在しているのかどうか、それを確認せずにはいられない場所に、少女は立っていたのだろう。そして、ソフィアは視線を床に向けたまま、エリザベートを見ていた。そう、視線は外していても、心の目は確かにエリザベートを見ていたのだと思う。

 ソフィアはその矛盾を心の中に抱えたまま、そっと目を閉じた。明日もまた、山のような書類が目の前に差し出されるだろう。その紙を捌けば生き延びることはできる。だが、生き延びれば、また、皇后の人生に近づいてゆく。未来の結末がソフィアの心に重くのしかかってくる。その重さを受け止めるために彼女ができること、今はただ、薄明りの中で小さな紙片にペンを走らせることだけだったーー。

封蝋-皇后の侍女になった編集者が見た19世紀│第1部 硝子の宮廷 第3章 秤の上の皇后】の更新予定は2/9です。

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