【ブログ小説】やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第8章 慈善の甘さ

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 1932年、不況と不穏な空気がロンドンの路地裏にも染み込むなか、小さな珈琲店は今日も変わらぬ静けさを保っている。

 寡黙な店主リックは、議論で勝たず、誰かを追い出さず、ただ湯気と間合いで人の呼吸を整える。常連たちが抱える失業や怒り、上流の客が持ち込む“外では言えない用件”、そして“黒い言葉”が忍び寄る気配。

 そこへ通うクレアは、祖父が遺した癖や言葉を手掛かりに、店に漂う不思議な信用の理由へ少しずつ近づいていく。

 やがて明かされるのは、誰かを裁くための真実ではなく、沈黙が守ってきた日々の手順。階級や時代の裂け目のそばで、同じ一杯がそっと差し出される。

そんな“やさしさ”の物語。

主な登場人物

開く

リック・エヴァンス
ロンドンの路地裏で小さな珈琲店を営む高齢の店主。丁寧すぎる所作の奥に、語らずに生きてきた過去がにじむ。

クレア・コックス
リックの店に通う常連客で、落ち着いた観察眼を持つ女性。

メイベル・エヴァンス
リックの妻であり、店の土台を作った共同創設者。

▪ランドルフ・コックス
ヨークシャ地方にある地主の屋敷で執事を務める。

▪アーロン・ディクソン
ランドルフの知人で、ロンドンの資産家

前回のストーリー

第3部 店が交差点になる

第8章 慈善の甘さ

甘さが贅沢になる

 砂糖壺の減りが、ここ数日で目に見えて早くなった。甘いものが欲しいのではない。人々が皆、体温を求めているのだと、リックは知っている。砂糖をひとさじ落とすだけで、舌の上にわずかに熱が戻る。今日一日をなんとか持ちこたえられる。

 けれど、そのひとさじは、いまでは“贅沢”へと傾き始めていた。銅貨の重さは、きのうと同じ砂糖をどんどん高くしていく。冬の終わりが見えない年は、甘さが奪い合いになる。心の中を見透かされまいと、人々は上っ面だけでも礼儀を整える。もろく剥がれ落ちそうな誇りを守るために。

 朝の路地は乾ききらず、石畳が鈍い光を返していた。路地裏の小さな珈琲店では、朝から常連客の冗談めかした愚痴が続いていた。トムは笑いながら言った。

「いよいよ、砂糖も配給になりそうだ。これからはブラックにしねぇとな」

 居合わせたエミリーが肩をすくめる。

「砂糖を配給にするなんて。体が冷えちまう前に、まずは石炭を配ってくれないとね」

 笑いの奥には、誰も口にしない“社会への不満”が深く沈み込んでいた。部屋の火を点けるか、パンを買うか、靴底を張り替えるか、医者へ行くか、どれも同じ銅貨を必要とする。だが、そのすべてを補うだけの銅貨はない。常に選択がを迫られる。決断できない代わりに沈黙が増えていく。

 日雇い労働者であろうか、この店ではあまり見かけない男が、帽子のつばを触りながら言った。

「職業紹介所の列が、近ごろでは先の通りの角まで伸びてるんだ」

 トムが振り向き答える。

「順番が来る頃には、働けるぞって顔を作るのに疲れちまうぜ」

 リックは壺を持ち上げ、砂糖を砂糖の壺に少しだけ足した。スプーンは二本、揃えて置いた。

善意と尊厳のすれ違い

 扉が重たそうな音を立てて開いた。冷気が一筋、店の中を通り、湯気を揺らす。入口の鈴は鳴らない。鳴らない鈴を好む客がいることを、常連たちは知っている。

 入ってきた女は、コートの襟を軽く正し、周囲を伺いながら自ら空気を整えた。香水は強くない。だがコートの仕立ての良さは見ただけでわかる。車で来たのだろう。いっさい泥が付いていない靴は、石畳の湿りを踏んでも音を立てない。帽子の縁も奇麗に手入れされていた。その姿は、彼女の生活を口で説明するよりも、遥かに明確に、雄弁に語っていた。
 
 女は手袋をしたまま、帽子を取った。それは微妙な距離感でもあった。店の常連たちは言葉を止め、距離を測る。沈黙は、相手の輪郭を確かめるためのものでもある。

 壁際の席に座るクレアは、視線を上げた。カップの縁に触れていた指が止まる。だが、クレアの表情は変わらなかった。上流の匂いを恐れてはいない、上流の「正しさ」が持つ甘さを、よく知っている顔だった。

「おはようございます」

 その女はカウンターに立つリックを見て微笑んだ。

「薄めの珈琲を一杯、お願いします。砂糖も、添えていただけるかしら」

 砂糖を使うかどうかは、分からない。だが、砂糖が当然である世界と、砂糖が計算である世界が、ひとつのテーブルで向かい合う。

「かしこまりました」

 リックの返事は短い。だが、カップを置く位置だけは、いつもより正確になる。無意識に彼は鎧をまとっていた。鎧は、相手を拒むためではなく、誰の顔も潰さないために必要だったからだ。

 女は名乗らなかったが、静かに話を始めた。

「近くの方々の様子を、少しだけ見て回っていますの」

 常連客たちの視線が女に集まる。

「困っている方がいらっしゃれば、力になりたいと思って」

 正しい言葉を使い、声も柔らかい。だが、常連たちの背中は一斉に硬くなり、背中が守りに入る。彼らには守りたい、守らなければならないものがあるからだ。自分が自分でいられるための尊厳。エミリーは努めて冷静に女に言った。

「それは、ご親切に」

 慈善の女は少しだけ身を乗り出した。

「教会の前で札を配ると、受け取る方が見られてしまいますでしょう」

 リックは黙ってカップに珈琲を注ぎ入れ、そっと女の前に置いた。そして、脇にあった砂糖壺を引き寄せる。

「ここなら、必要な方が、ご自分のタイミングで手を伸ばせるのではないかしらと思って」

 言い方はとても丁寧で、配慮に満ちていた。だが、常連たちは、彼女の言葉を聞きながら怒りにも似た苛立ちを抑えながら、一斉に目を逸らした。見られないようにする、という発想そのものが、すでに見下しているのと同じ響きを持っていたからだ。見ないふりで守ってきたものを、善意が正面から照らす。

 女は、客の服を値踏みするように見ていたわけではなかった。だが、視線がよく動く。人の上を動き回る視線は、意図がなくても相手を緊張させる。視線が届くこと自体が、痛みになる。

 彼女は小さな手帳を取り出した。革の表紙に薄い金の押し。そこへ何かを書き留めるわけではない。ただ、持っているだけで、手続きの匂いが立つ。申請書と同じ匂いが、革にも染みるのだろうかと、リックはぼんやり考えていた。

 そして、カップの縁を揃え、砂糖壺の蓋を静かに閉め直した。音で区切り、温度で場を整える。温度が整えば、言葉が少しだけ柔らかくなる。
 
 そこへ、もうひとりの客が入ってきた。男だった。コートは薄く、袖口の糸がほどけている。靴底がすり減って薄くなっているのが、歩き方で分かる。咳は乾いていた。乾いた咳は、喉よりも先に胸を冷やしていく。

 男は左手に帽子を無造作に握り、入口近くで立ち止まった。視線が泳ぐ。自分が受け入れてもらえる場所であるかどうかを、言葉ではなく空気で測っている顔だ。トムが椅子を引く音を、わざと大きく鳴らした。彼なりの居場所の主張だった。ここが自分たちの呼吸できる場所だという確認である。

 入口に立っていた男は、少しだけ肩の力を抜いてカウンターのいちばん奥の席に座った。彼の指先は冷え切って赤く腫れあがっている。

「紅茶を……」

 うつむいたまま男が言うと、慈善の女はじっと男を見た。彼女は手にしていたカップを皿の上に戻し、立ち上がった。

「……こちらを」

 彼女は男の背後に歩み寄り、バッグから小さな紙片を出した。配給の券だろう。紙は上質の匂いがしていた。彼女はさりげなく差し出したつもりだったが、ここでは上品なさりげなさほど、受ける側の胸に痛みを与える。そしてその痛みは、一瞬にして屈辱に姿を変える。
 
 男は女の顔を見上げ、動きを止めた。そして彼の視線は差し出された紙片ではなく、紙片を差し出す女の真っ白い手袋に向けられた。白い指先が二人の間に存在する見えない距離を感じさせた。距離は、越えるためではなく、測るために置かれている。

「……結構です」

 女の表情が固くなった。断られたことへの怒りではない。自分の正しさが揺れる痛みだった。自らの善意を信じているからこその痛み。その痛みを隠すために、彼女もまた、無意識に鎧の紐を締めなおす。鎧という名の礼儀は、ときに他人の息を奪うほど整っている。

「失礼いたしました」

 紙片をそっとバッグに戻し、女がうつむいたまま席に戻ると、トムがが低くい声を絞り出すように言った。

「近頃じゃ、病院へ行く金もない奴が増えてる」

 別の常連客がそれに続く。

「慈善を振りかざすのは簡単だ。だが、あんたらが助けてる奴らの中には、弱いふりをしてるだけの奴も大勢いる」

「結局、必死で働いてる人間が損をするってことさ」

 言葉はけっして荒れてはいない。だが言葉の奥に刃を忍ばせる。慈善の女が静かに言った。

「私はただ、必要な方に必要な分を、きちんと届けたいだけなのです」

 届け先は誰が選ぶのか。綻びひとつない純白の手袋で覆われた指先には、正義という名を借りた、制度の匂いがしていた。そのとき、クレアがカップから目を離さずにぽつりとつぶやいた。

「助けというのは……甘いほど、相手の口に残るものですね」

 慈善の女は、ゆっくりとカップに視線を落とし、静かに瞬きをする。まつ毛が揺れ、表情が曇る。リックは女のほうを見て言葉をかけた。

「砂糖は、必要な分だけで」

 それ以上は言わない。彼は砂糖壺の位置を、指先でほんの少し直した。小さな調整が、誰かの顔を救うこともある。女がぽつりと口を開いた。

「制度が整えばいいのですけれど。施しではなく、人々の権利として……」

 制度。権利。その言葉の響きが、リックの指先に紙の手触りを呼び覚ます。視界が目の前の白い湯気に交じり、ぼんやりと色あせていくーー。

 インクの匂いがした。乾いた紙の端が、指に当たる感触が戻る。砂糖壺の中の白さが役所の白い封筒に変わる。店の外ではなく、この小さな店の中に、役所が座り込む時代があった。壁の時計の針の音が響いている。まだ夫婦でこの店を切り盛りしていた頃だ。

 メイベルはカウンターの内側で湯を沸かし、湯気の向こうに客を見ている。そのとき、ひと組の老夫婦が店に入ってきた。男の帽子は丁寧に手入れされていて、手入れの丁寧さが誇りの名残を示しているようだった。女は夫の腕にそっと触れ、窓際の椅子へと導いた。

 ふたりのコートは見た感じとても古かったが、しかし古さはだらしなさではない。何度も繕いながら、大切にときを刻んできた古さだ。年老いた夫はポケットから一枚の紙を取り出した。折り目が多い。何度も開き、何度も畳んだのだろう。端には、役所の印が押されているのが見えた。

「これを出せば、……わずかばかりの手当が、もらえるそうだ」

 声は小さい。言葉が喉で引っかかる。妻が言った。

「でも、年老いた我々には、この書類すら何を言っているのか……」

 救いの入口にすら門番が立っている。夫が紙の端を指で叩いた。

「身元だのなんだのって……」

 夫が縮めた背中を、妻が静かに撫でた。若いリックは、カップを拭く手を止めて老夫婦の姿を見た。制度は救いかもしれない。だが、その救いにすら証明書が求められる時代なのかと、リックは言葉を見つけられずにいた。

 そのとき、メイベルがカウンターから出て、老夫婦の席へ歩み寄った。彼女は真新しい白い封筒を手にしていた。紙の白さが、老夫婦の戸惑いを包みこむ。メイベルは老夫の前に封筒を置き、何も言わずにテーブルの上に広げられた書類を手に取った。

 何度も折りたたまれて破れそうになっている紙の端を押さえ、見やすい形に戻していく。ひと通り書類に目を通したメイベルは小さく頷き、必要な箇所だけを老夫婦に静かに指し示した。

「読み方も、よく分からないんだ……」

 戸惑ったようにメイベルを見上げて夫が言うと、メイベルは微笑みながら頷き、書類の要点を短く説明した。名前を書く場所、住所を書く場所、最後に署名をする場所。助言ではなく、迷わない順番を示していく。そして最後に、夫の手元にペンを置いた。


 夫がゆっくりとペンを握ると、妻はその横で、少しだけ肩の力を抜いた。ひとつひとつ確認しながら夫はペンを走らせていく。ところどころ震えた文字が、老夫婦の生きてきた時間の重さを映し出しているようだった。

 夫が書き終えると、メイベルは書類を自分の方へ向けて確認し、折り目が増えないように折り畳んだ。そして、用意した白い封筒に入れ、人目に晒されないように封筒の口をきちんと揃え、丁寧に閉じた。そして老夫婦に手渡しながら言った。

「どうぞ」

 夫は封筒を受け取り、小さく息を吐いた。そして少しだけ背中を起こし、目礼した。メイベルがカウンターへ戻ろうとした時だった。声を荒げて職人風の男が、勢いよく入って来た。肩に外気の冷えを乗せたまま、息が白い。背中を追うように、もう一人の男が入った。長く働いてきた仲間だが、今日、その男は「来週から席がない」と告げられたばかりだった。帽子の縁を握る指が固い。

「結局、怠け者を養う仕組みなんだろ」

 職人風の男が吐き捨てる。誰か一人を責めたいのではない。責め口の形を借りて、自らの生活を守ろうとしているのだった。

「朝から並ばされて、あいつらは引換証を配る前に“働けない証拠”を出せって言いやがる」

「働けるなら働け、ってな」

「働けないなら、病人だってことを証明しろってよ。家族のことまで嗅ぎ回りやがる」

 “引換証”というのは、手当の窓口で渡される救済券のことだ。石炭やパンに替えるための紙。それは、もらう側の誇りを削りやすい紙でもあった。

 カウンターのいちばん窓に近い席にいた男が、カップを置いた。この男は常連で、どうやら役所勤めをしているらしく、言葉の端がいつも書類の匂いを帯びている。

 窓際に座るその男に気付いた職人の怒りは、すぐさまそこへ向かう。理由は簡単だ。役所の言葉は、寒い日にいちばん冷たく聞こえるからだ。だが窓際の男は落ち着いた声で言った。

「不正があれば、皆が損をするんです」

 役所勤めの男は声を荒げないまま、それでも、明確な線を引く。

「引換証を出す以上、調べも必要になります」

 職人の男が鼻で笑う。

「損だって? 誰が損するってんだ? そもそも、誰もが苦しんでるからあんたらのところに行くんだろうが」

 我慢ならないといった顔で、トムが加わる。

「俺たちは必死に働いて、税金だって払ってるんだ。なのに、いざって時はなんでも疑われる」

 エミリーがなかば諦めたように、薄ら笑いを浮かべて役所の男に向き直った。

「真面目に働いてきた人間ほど、誰かに頭を下げなきゃならないなんてね……」

 失業しかけの男は、彼らの話をうつむいたまま黙ったままだった。反論もせず、同意もできず、ただ帽子の縁を握りしめていた。この場で声を上げれば、恐らく救いを求めたその事実までもが噂になって、一晩で街中へ広がっていく。それが、今の街の速さだ。

「……俺だって、働きたい」

 ようやく、失業しかけの男が言った。言葉は小さく、喉の奥で擦れる。

「工場が閉鎖することになったんだ。手を動かしたくても、動かす場所がない」

 職人の男は、彼のその言葉に一瞬目を伏せた。カウンターに戻ったメイベルは、リックと並び、静かにそのやり取りを見守っていた。リックもメイベルも、どちら側にも立たない。メイベルは湯気の立つカップを三つ、少しずつ間を空けて置いた。職人と失業しかけの男、そして役所勤めの男。同じ高さに戻す距離だった。

「熱いうちに飲んでください」

 それだけで、場の呼吸が一段戻る。口が尖るのは、腹が冷えている時だと、彼女は知っていた。職人の男が、まだ苛立ちを残したまま言う。

「だが、あいつらの調べ方は……人を疑う調べ方だ」

 メイベルはカップを見つめたまま、カップの湯気を見つめたまま、言葉を選ぶ。

「正しいかどうかの話は、あとにしましょう。いま凍えている人を、凍えたままにはしておけません」

 カウンターの客たちの視線が、メイベルに集まった。

「働ける日が来るまで…… いまは、ここで温かくしていってください」

 正しさを伝えようとする言葉ではない。それは、生きる側の温度を保つための言葉だった。職人の男は口をつぐむ。納得したというわけではなかったが、ひとまず、振り上げた手を誰かに振り下ろすことなく、自分の膝の上に下ろす場所はできた。

 役所勤めの男も、握りしめていた指の力を抜く。失業しかけの男は、カップに触れて初めて、自分の手が冷えきっていたことに気づいた。

 その日の夜、すべての客がいなくなり、リックが片付けに入る。砂糖壺を棚へ戻そうとすると、メイベルが手で制した。彼女は壺を持ち、客席の端へと運ぶ。いつもより、少しだけ取りやすい位置。ただし、目立たせはしない。リックがわずかに眉を寄せる。

「そこに置いておくと、あっという間に減っていくよ」

「えぇ、減りますね」

 メイベルは笑わずに言った。彼女は壺の縁を指で確かめ、蓋をそっと閉める。

「甘いものは、渡し方を間違えると傷になるの。だから、ただ、置いておけばいいのよ」

 選べる形だけを残しておく。選べることが、崩れそうな誇りの最後の支えになる。リックは、メイベルのその言葉を黙って聞きながら、その置き方を体の中に染み込ませていた。この店が守りたいのは正しさではなく、誰かがまた、戻ってこられる距離を保つことだった。

置き方が決める救いの形

 湯気の匂いが年老いたリックの鼻先に戻ってくる。路地裏の年季の入った小さな珈琲店では、相変わらず、生活に精一杯だという浅い低い呼吸が行き交っていた。

 慈善の女は、先ほどより少しだけ控えめにカップを持った。貧しい男はまだカウンターの一番端の席にいる。断った手が、膝の上で硬く握られていた。固さは拒絶ではない。自分を守るための硬さだった。

 リックは砂糖壺を、ほんの少しだけ動かした。目立たない角度で、手が伸びやすい距離へ。かつてメイベルが教えてくれた配置を、今の時代へそっと移す。彼の指の動きは小さいが、ずっとメイベルの想いを今も守り続けている。

 貧しい男は周囲を見ないふりをしていた。彼は砂糖壺からひとさじだけ砂糖をすくい取って目の前の紅茶に流し入れた。それが彼の選択だ。砂糖は溶け、湯気の匂いがわずかに柔らかくなる。柔らかさは、顔に出ない程度でいい。慈善の女は彼の表情の変化に気づいていた。だが、何も言わなかった。

 彼女はゆっくり瞬きをして、視線を自分の手元に戻すと、ゆっくりと立ち上がった。そして、手に持った袋から、小さな箱を取り出した。箱の中には引換証らしき紙片が数枚入っていた。きれいに整えられたその紙片には、善意の裏側にある彼女自身の恐れを吸い込んでいるようにも見える。

「ここに置かせてはいただけませんか。必要な方に、これが渡るように」

 必要かどうかを誰が決めるのか。慈善の女は続けた。

「週に一度、空になったかだけ、教えていただければいいんです」

 淀みのない声だった。

「数字だけでかまいませんの。ご負担は増やしませんから」

 リックは黙って箱を受け取った。だが、彼にとってこれは承諾でも否定でもない。受け取ることで、彼女の善意の顔を守る。そして、置き場所を決めることで、この店の尊厳を守る。

「では、こちらへ……」

 リックは受け取ったその小さな箱を片手に持ち直し、反対側の手で、カウンターの内側にある小さな引き出しを開けた。女は一瞬だけ驚き、戸惑いの様子を見せたが、微笑んで頷いた。

「……噂にはお聞きしていましたの。ここは誰もが息をしやすいお店だと」

 リックは笑みを見せることなく、代わりにカップを拭く布を畳み直した。その沈黙が答えになる。慈善の女は小さく頷き、常連の客たちに目をやることなくその場に背を向けた。女が去り、扉が閉まる。常連客たちの呼吸が一斉に戻る。貧しい男は帽子をかぶり直し、誰にも頭を下げずそのあとすぐに出ていった。

 トムは減らず口を叩きながら、エミリーは開き直った笑い声を上げながら、そして、クレアは静かに椅子を引いて、いつものように店を後にする。

「お手を煩わせました」

 そして、

「また、おじゃましてもよろしいでしょうか」

「いつでも」

 閉店後、リックはカウンターの引き出しを開け、女から預かった箱をもう一度見て、大きくため息をついた。善意とは時として人の尊厳を傷つける。どうするべきであったのか、本当のところ、リックにもその答えはわからなかった。

 小さな箱に触れることなく引き出しを閉めようとして、彼は箱の下敷きになっている一枚の封筒に目をやった。上質な紙。宛名はない。だが封は閉じられている。

 箱の下から見える封筒の角には、細い筆記体の頭文字が一つだけ見えていた。封に使われた蝋は淡い蜂蜜色で、乾いた光沢を見せている。押された印は小さな紋章の形をしていた。獣の角のような曲線が描かれている。路地裏の寂れた小さな珈琲店には似つかわしくない整い方だ。

 封蝋に顔を近づけると、かすかに石鹸の匂いがした。磨かれた木の匂いも混じる。いつか、屋敷の廊下で嗅いだ匂いに近い気がした。リックの記憶が喉元まで上がってくる。

 だが、彼はすぐに飲み込んだ。そのまま引き出しを推し込み、そっとカウンターの灯りを落とすと、砂糖壺の白さが暗闇に沈んだ。

 人々が甘さを受け取ることは、救いか。それとも、鎧を剥がすことかーー。

やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第3部 店が交差点になる 第9章 帝国戦争の煙】の更新予定は2/26です。

 

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