【ブログ小説】やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第5章 正しさの匂い

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 1932年、不況と不穏な空気がロンドンの路地裏にも染み込むなか、小さな珈琲店は今日も変わらぬ静けさを保っている。

 寡黙な店主リックは、議論で勝たず、誰かを追い出さず、ただ湯気と間合いで人の呼吸を整える。常連たちが抱える失業や怒り、上流の客が持ち込む“外では言えない用件”、そして“黒い言葉”が忍び寄る気配。

 そこへ通うクレアは、祖父が遺した癖や言葉を手掛かりに、店に漂う不思議な信用の理由へ少しずつ近づいていく。

 やがて明かされるのは、誰かを裁くための真実ではなく、沈黙が守ってきた日々の手順。階級や時代の裂け目のそばで、同じ一杯がそっと差し出される。

そんな“やさしさ”の物語。

主な登場人物

開く

リック・エヴァンス
ロンドンの路地裏で小さな珈琲店を営む高齢の店主。丁寧すぎる所作の奥に、語らずに生きてきた過去がにじむ。

クレア・コックス
リックの店に通う常連客で、落ち着いた観察眼を持つ女性。

メイベル・エヴァンス
リックの妻であり、店の土台を作った共同創設者。

▪ランドルフ・コックス
ヨークシャ地方にある地主の屋敷で執事を務める。

▪アーロン・ディクソン
ランドルフの知人で、ロンドンの資産家

前回のストーリー

第2部 育ちと窓

第5章 正しさの匂い 

乾かない路地の匂い

 昼前の路地は、雨が上がったのに乾ききらなかった。石畳の目地に水が残り、靴底の音を柔らかく曇らせる。表通りの喧噪は今日も薄い壁の向こうにあり、ここへ来るころには遠い波音に変わっていた。リックは扉を半分だけ開け、外の空気を確かめた。冷えはある。だが、冬の底ほど鋭くはない。その代わりに別の匂いが混じっている。

 薬品の匂いだ。消毒薬と乾いた空気が混じり合っている。風が路地を曲がって店の入口へ届くたび、鼻の奥が少し乾く。匂いは目に見えないのに、身体を先に固くする。

 ここで、いつもの朝を過ごしている常連客のトムがカップを持ち上げたまま、鼻を鳴らした。

「今日は病院の風だな」

 冗談めいた言い方だった。リックは黙ったまま湯気の立つポットを少し傾け、カップを温めた。体温に近い熱だけを残して、余計な熱は捨てる。熱が強すぎれば、舌が痛む。痛めば人は、言葉も鋭くなる。白いハンカチが一枚、カウンターの端に置かれていた。さっきまで座っていたエミリーが忘れていったのだろう。リックはそれを畳み直し、棚の下へそっと滑らせた。

 時計の針が小刻みに進み、店の中が静かになる。静けさは贅沢ではない。静けさは、息を整えるための道具だ。ここでは誰もが、ゆったりと呼吸ができる。

正しさの匂いと沈黙

 鈴が鳴った。扉が開く音は重く、路地の冷気を一筋だけ引き入れる。入ってきた女のコートは地味で、色も形も目立たない。だが彼女の存在は、匂いで分かった。石鹸と消毒薬が、髪の先まで染みついている。指先は荒れているが、爪は短く整えられていた。背筋はピンと伸びているが、わずかに肩が落ちているようにも見える。落ちた肩は、休む暇のなかった一日の姿を現しているようだった。

 クレアはいつもの席に座っていた。もう何日になるだろうか。毎日同じ時間に彼女はやってきて、壁際の、入口に近い席に座る。彼女は視線を上げ、入って来た女の手元に一瞬だけ目を留めた。同情の顔ではない。何かを確かめるような目だ。女は入口から少し奥の冷気が直接当たらない場所を選んで座った。

「熱いのを」

 短い注文だった。言い方は素っ気ない。素っ気なさは、余計な言葉を削いで残った芯だ。

「甘いものは、あとで」

 甘いものよりも、今は体温を保つのが先だと、体が知っている。

「承知しました」

 リックはカップを温め、熱いままの珈琲を注いだ。湯気が立ち、店の内側の空気が少し柔らかくなる。女はカップを両手で包み、そのまましばらく口をつけなかった。少し前にやって来ていたミセス・プリチャードが、女の顔をちらりと見た。

「病院の方?」

「ええ」

「ハワードと言います」

 女はそう名乗った。名乗る必要はない場所だと分かっているのに、名乗ってしまうのは仕事の癖だろうか。名を出すことで責任を引き受けるという癖がついていた。リックは黙って頷き、かすかにほほ笑んだ。

「温かい……、満たされます」

 ミス・ハワードの言葉はそれだけだったが、満たされるという言葉の中には色々な思いが詰まっている。

 トムが肩をすくめる。

「満たされているのは、病院だけか」

 言い方には少々棘があったが、それは相手を刺すためではなく、トムにとってのそれは自分の誇りを守るためだ。ミス・ハワードは反論しなかった。反論する力が残っていないのかもしれない。あるいは、反論しても何も意味を持たないと知っているのかもしれない。

「待合室では人々が溢れています」

 両手に包み込んでいたカップを持ち上げ、ひと口だけ口にすると、ミス・ハワードが口を開いた。

「子どもの咳が止まらないという患者さんがいちばん多いです。そして、指先が青いまま眠ってる赤ん坊も、いました」

 彼女は感情よりも、今ある目の前の事実だけを並べていく。変えられない事実は、どんな感情よりも重い。重ければ重いほど、聞いた側は会話の流れを軽くしようとする。

「病院は慈善の入り口だろうよ。わざと弱いふりをする奴もいる。施しを嗅ぎつける鼻は、立派なもんだぜ」

 常連客のひとりが乱暴に言い放つと、ミス・ハワードの指先が、カップの縁で止まった。だがけして怒りの表情は見せない。怒りを見せてしまえば、その場が一気に壊れてしまうと知っている目だった。壊れたところで、いちばん損をするのは弱い者だと知っている目だ。

「弱いふり、ですか?」

 少しだけ乾いた声でミス・ハワードが尋ねる。だが、彼女はその回答を待つことなく続けた。

「ふりをするほど元気なら、こちらも助かります。ふりじゃない人は、声も出せません。息が浅いまま、黙るだけです」

 客の男が唇を噛む。それが、現実を突きつけられた虚しさなのか、正論を突きつけられたことへの悔しさなのかはわからなかったが、リックは言葉を足さなかった。議論を整えるのは、彼の仕事ではないからだ。彼の仕事は、その場を程よい温かさに保つことだった。

「今朝は何を口に入れました?」

 リックがそう客の男に話しかけると、空気が少しだけ温度を取り戻す。政治でも慈善でもなく、口の中の現実へ戻るからだ。現実へ戻れば、尖った空気は少しだけ丸くなる。

「パンの端だけだな」

リックが言う。

「紅茶だけしか飲んでないね」

ミセス・プリチャードが続く。

「昨夜の残りを少し。だが、石炭を買ったら、ミルクは無理だ」

 答えはまばらだ。ミス・ハワードが低いトーンで静かに言った。

「薬より先に、温かい食事が必要な人がいます。それでも、薬を求めてやって来る。助けが必要な人は、見た目では分からないんです」

 彼女の言葉は正論だった。正しさは美しいが、時として見えない冷たさも宿していることがある。トムがイラついた表情で返す。

「結局、働いてる奴が損をする世の中なんだ」

 隣りに座っている男がそれに続く。

「働いても、助けてもらえねえ。うちの親父は、助けを受ける前にくたばっちまったさ」

 男の声は少し震えていた。怒りではない。恐れだ。自分が同じ場所へ落ちていくことへの恐れだった。

「だが、助けられる側にも誇りってのがある。あんたらに救いを求めていく人間だけが、苦しんでると思っているなら、大間違いだぜ」

 ミス・ハワードは思わず目を伏せた。否定されたことへの反発ではなく、手を差し伸べることができない人々を慮る心の痛みを感じていたからだ。明らかにその場の空気が淀んでいく。男はそれ以上、何も言わなかった。リックはわずかな音を立ててカップを置いた。小さな音が、会話の尖りを切り分ける。

「熱いうちに」

 ミス・ハワードの襟元からは、白い布が覗いていた。白衣の上からカーディガンを羽織っているように見える。彼女は襟元から覗く白い布を指先で整えた。きっと、誰かを救えなかった夜を背負ったまま、彼女はここに居るのだとリックは理解した。

 襟元から見えるその白い布が、リックの遠い記憶の扉を静かに叩く。白い布。白い看護服。白いシーツ。湯気の匂いが、湿った石炭の匂いへと変わっていく。スプーンが縁に触れ、かすかな音がした。その音が、古い季節の扉になる。

白い布が開く季節

 ―ー1880年代。

 店はまだ新しい匂いを残していた。木は若く、床の軋みも少ない。看板の文字はまだ深く刻まれておらず、路地の人々はこの店の存在に気付くことは少ない。若いリックはカウンターの内側に立ち、背筋を伸ばした。ピンと伸ばした背筋は、屋敷で過ごしていた頃からの癖だった。だが彼はそれを隠そうとしない。隠せば余計に目立つと知っているからだ。上品さを隠すより、仕寧さで上書きするほうが早い。

 妻のメイベルは、彼の横で砂糖壺を磨いていた。磨き方はとても丁寧だ。鈴が鳴り、ひとりの看護師が入ってきた。年は30を過ぎているくらいだろうか。顔の疲れが、その年齢よりもうんと深く刻まれている。制服は地味で、裾が少し擦れている。手は荒れ、手袋の跡が白い肌にうっすらと残っている。

「座っていい?」

 看護師は訊ねた。

「どうぞ」

 メイベルが先に答えた。

「熱い珈琲を」

 リックは、湯気の立つ淹れたての珈琲を一杯を、テーブルへ置いた。看護師は礼を言わず、ただ両手で包んだ。その包み方は祈りに似ていた。

「やっと、手を洗うようになったわ」

 看護師はぽつりと言った。

「戦争のあとでね。清潔でいることが命を救うんだって、ようやく皆が覚え始めた」

 隣りで中年の女性客が鼻で笑う。

「手を洗ったくらいで、人が助かるもんか」

「助かる人はいます」

 看護師が女性客のほう見て言った。

「もちろん、助からない人もいます。でも、清潔にしなければ、もっと助かりません」

 メイベルは、砂糖壺の蓋を開け、そっと看護師に差し出した。

「自分にやさしく、甘くしたい日もあるでしょう」

 看護師は首を振り、少しだけ笑った。

「甘さは……あとでいい。今は、熱さがほしいんです。熱さがあると、泣かずに済むから」

 そのとき、ひとりの母親が子どもを連れて店に入ってきた。子どもは咳をしている。というより、目立たないように一生懸命こらえている様子だった。母親の頬は赤みを帯び、コートの裾はほつれていた。それでも背筋だけはピンと伸ばしているのが痛々しい。

「少し、休ませて」

 母親は言った。看護師は思わず子どもに目をやる。

「すぐに、病院へ」

 看護師は母親に言った。だが、母親は首を振った。

「行けない」

「薬が出ます。温かい部屋があります」

 看護師は説得するように、まっすぐ母親を見つめる。

「そういうのは、いいの」

 母親の声が固くなる。

「うちは、まだ……」

 母親の言葉が宙で止まる。誰かに助けを乞うことが、恥であると信じていたのだ。まだ自分は落ちていない。そう言いたかったに違いない。そう言って背筋を伸ばしていないと、足元が崩れていくような気がしていたから。見かねたメイベルが、そっと母親に声をかける。

「外は冷えるわ」

 メイベルは子どもの肩にそっと白い布をかけた。布は店の奥にあった古いショールだ。薄いが、いくらか風を遮る。

「病院へ行くことがあったなら、そのときに、これを返しに来てください。いつでもいいから」

 なんでもいい、なにか口実があれば、母親が子どもを病院に連れて行くきっかけになるかも知れない。メイベルはそう考えたのだ。母親の目は潤んでいた。看護師も、小さくうなずき、自らの正しさを押し付けることはしない。親子は1杯のミルクティーを分け合い、静かに店を出て行った。

 母親と子どもが去ったあと、近所の客が囁く。

「メイベルは、あいかわらず優しいねえ」

「でも、甘やかしすぎると癖になるんじゃないかい」

 優しさも甘さも、使い方を間違えればどちらも刃(やいば)になり得る。刃のある言葉ほど、口の中で軽く転がる。その晩、閉店間際の店に、噂の影が入り込んできた。近所の客がが何気ない顔で言う。

「さっきの子、ほら、あの咳してた子。病院に行くことにしたってよ。母親もこれからつきっきりで、働けなくなるって話さ。気の毒だね。ほら、あの家、父親がどーにも頼りなくて」

 リックは布巾を畳みながら、客の女を見た。

「その話は、ここまでにしましょう」

 女はは不満そうに口を尖らせた。不満は、自分が正しいと思っている証拠だ。

「何も言わないのは、冷たいんじゃないか?どうせ助けるなら、もっと助ければいいのに」

 助けるなら、という言葉が、正しさのきつい匂いを帯びている。正しさを帯びた匂いは、意味もなく周囲へよく拡がる。拡がれば、息が詰まる者が増えていく。メイベルが静かに言った。

「秘密っていうのは、罪じゃないの。生きるために隠したい顔もあるし、隠したまま、どこかで温め直す顔もあるわ」

 隠す顔。温め直す顔―ー。噂を防ぐためではなく、誰かの尊厳を守るために、口を閉じる。リックが人々の噂話を口外しないのは、商売のためではない。人々がまた、安心してここへ戻って来られる場所を守るためだ。戻って来られる場所がなければ、人は自分を守れない。

 客が出て行ったあと、メイベルは砂糖壺を棚へ戻し、ふと咳をした。小さな咳だった。喉に触れる程度の咳だ。彼女はすぐに笑って誤魔化して笑う。

「煤が入ったかしら」

 だが、リックは気づいていた。気づかないふりをしたのは弱さではない。その夜を壊さないための手順だ。壊す勇気より、壊さない勇気が要る夜がある。

 ――
 
 目の前に白い湯気、店の木の匂い、ミス・ハワードの指先が、カップの縁でまだ揺れている。揺れる指先は、誰かの汗の記憶を離さない。沈黙はまだ、続いていた。そのとき、ミス・ハワードが大きく、一度だけ息を吐いた。体内に蓄積されたものがやっと少しだけ体の外へ出ていく。

 じっと窓の外を眺めていたクレアが、テーブルのカップを持ち上げ、湯気に向けて一度だけ頷いた。ミス・ハワードが席を立ち、コートを肩にかけると、ようやくクレアがその場の沈黙を破って口を開く。

「手が荒れますね」

その表情は穏やかだ。

「水が冷たいでしょう」

 ミス・ハワードは少しだけ笑った。

「冷たいほうが、目が覚めます」

「そうね、温かいものはここでいただきましょう」
 
 クレアが微笑みかける。

「そうですね。病院だと……冷めるのが、早いんです、何もかも」

 誰かの声に似ている。二人の会話を聞きながら、リックは懐かしさの輪郭を掴みきれずにいた。同じではない。似ている、という感覚だけが胸に残る。ミス・ハワードは胸元に見える白い布を指で整えながら言った。

「咳が続くときは、無理をなさらないで」

 誰に向けた言葉だったのかは分からない。そこに来ていた常連客へ向けた言葉かもしれないし、クレアへの言葉だったかもしれない。あるいは、店の奥のリックへ向けた言葉だったのかもしれない。

「お気遣いを」

 リックの声は穏やかだ。彼の視線が一瞬だけ、店の奥の棚へ向けられる。触れられない季節が、そこにはある。触れれば、何かが崩れる季節だ。クレアはそれを見逃してはいない。リックが時折あの棚に目をやることが気になり始めていた。だが、尋ねもしない。いま、ガラス窓が割れれば、割れた窓から入ってくるのは、風ではなく噂だ。

 ミス・ハワードは出て行った。扉が閉まり、鈴の音が消えると、外の風が遠ざかる。消毒薬の匂いも薄くなる。残るのは静かに立ち上る湯気だけだ。湯気は体温の代わりに、静かに立ち上る。リックは砂糖壺を自分の方へ引き寄せ、布巾で磨いた。リックにとってはこの空間を整える所作だった。特に、正しさの匂いが残る日は、甘さを整える必要がある。甘さは逃げ道ではなく、角を丸めるための薄い布だ。

 クレアの前に置かれたカップには、もう珈琲は入っていない。だが、彼女はそのまましばらく窓の方を見ていた。空には雲の切れ間ができ、路地裏の通りの色も少しだけ明るくなる。トムが帽子を被り直し立ち上がる。

「看護の人ってのも、大変だな」

 少しばかりバツが悪そうに笑い、店を出て行った。そして、しばらくするとクレアも立ち上がった。コートの袖口を整え、いつものように紙片を鞄へしまうと、彼女は穏やかな声で言った。

「正しさって、匂いがするんですね」

 リックは顔を上げずに、カップを拭きながら答える。

「強い匂いほど、息が浅くなります」

 クレアは微笑みながら言う。

「だから……、皆、ここへ来るんでしょうね」

 リックは否定しなかった。だが、肯定もしない。クレアが扉を押すと、鈴が一度だけ鳴った。その音が消えると、リックは棚の下から、朝しまった忘れ物の白い布を取り出した。折り目を指でなぞり、元の場所へ戻す。白さは清潔の象徴ではなく、誰かの心の中を覆い隠すための色だ。

 奥の部屋で、誰かが咳をした気がした。もちろん、気のせいだ。気のせいだと確かめるために、彼はあえて扉のほうへは行かない。この店の奥には、彼がまだ触れられない季節があるーー。

やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第2部 育ちと窓 第6章 礼儀は鎧 】の更新予定は2/13です。

 

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