【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2部 刃(やいば)の手順 第6章 仕立て屋の噂

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 恐怖政治のさなか、パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で働く青年ジャンは、地区会所に勤める父を持つ娘クレールと出会う。言葉ではなく縫い目で惹かれ合った二人の恋は、噂と視線が支配する時代の網に絡め取られていく。

 クレールの父ドゥルマは、革命の任務に誇りを抱いたまま、娘を守るために“制度の内側”で恋人たちの逃走路を開く。だがその小さな例外は「平等」の名のもとに断罪され、父はすべてを背負って断頭台へ向かう。

 自由とは、平等とは、そして愛とは何だったのか。答えは出ないまま、問いだけが夜明けの空に漂っていた。

主な登場人物

開く

ジャン(普段名)/アルマン(真名)
パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で下働きをする青年。元貴族の家系である出自を隠して暮らしている。

クレール
市民を取り締まる地区会所の監視係の父を持つ。秩序を信じたいが、恋によって「正しさ」の輪郭が変わっていく。

ドゥルマ
クレールの父。地区会所の監視係(治安担当)。任務への誇りを捨てず、家庭では厳格で寡黙。

ラクロワ
地区会所の同僚で急進派。正義を「例外の排除」として理解し、平等の名で人を追い詰める。

ルノー親方
ジャンが務める仕立て屋の親方。会所の発注と巡回の気配に怯えながらも、店と職人の矜持を手放さない。

ニコラ
仕立て屋の徒弟。飢えと恐怖から口が先に動き、ジャンの「違い」を面白がって噂の火種を作る。

ブリュノー夫人
パレ・ロワイヤルの古参。過去の匂いに気づく目を持つ。

ガスパール
御者(馬車の車夫)で、門と荷車の流れを知りつくしている男。

ポワリエ夫妻
街道沿いの宿の夫婦。問いを増やさず、沈黙で匿う。

マドレーヌ
フランス南部の田舎町に住む縫い手。

前回のストーリー

第2部 刃(やいば)の手順

第6章 仕立て屋の噂

作業の序列

 パレ・ロワイヤル回廊の朝は、硝子の内側だけが早く温まる。外の石畳はまだ湿り、靴底の音が小さく跳ねるたび、店の戸口に冷えが入り込んだ。仕立て屋の空気は布の匂いより先に、足りなさの匂いで満ちている。

棚の上に残る反物は、幅の揃わない端切ればかりだった。麻はざらつき、毛は薄く、裏地に回せる絹はもうない。糸も短い束が点々と残り、針穴に通せばすぐに終わる長さだ。

 親方ルノーは台の上に帳面を広げ、鉛筆の先で同じ欄を何度もなぞっていた。会所からの発注は、布より先に人の背を固くする。会所の紙が届けば、客の顔色も序列も一度に入れ替わる。店が怯えるのは、仕事が増えるからではない。増えた仕事が、減らせない仕事だからだ。

「また、会所からだ」

 戸口に立った配達の男が、包みを差し出した。封は雑で、紙の端が湿っている。ルノーは包みを受け取り、ほどく手をいったん止めた。店の中の手が止まり、針の音が消える。会所の発注が入ると、作業の序列が変わるからだ。誰かのコートが後回しになり、誰かの腕章が先になる。それは客の声より、会所の紙が決める。

 包みの中にあった指示は、腕章の補修とコートの補修だった。三色章の縁取りは赤が褪せ、青も薄い。会所からのメモ書きを読んでいると、仕立て職人が尋ねた。

「急ぎ、ですか……」

「そのようだ」

「いつまでに」

「昼までだ。昼までにコート3着、それに腕章が10枚」

 言い終えたルノーの喉が、かすかに鳴った。

「これを落としたら、また巡回が増える」

「親方、巡回はもう十分だ」

「奴らには十分なんていう理屈はないさ。いくらでも増える。門の監視もな」

 ルノーは言いながら、誰にも目を合わせなかった。弟子のニコラは思わず舌打ちをした。彼の舌打ちはいつも腹の音より先に出る。

「会所、会所って、俺たちは布屋じゃなくて、会所の下働きかよ」

「声を落とせ」

「声を落とせば、腹に食い物が落ちるんならいいがね」

 ニコラは笑い、笑いの端でまた舌打ちした。笑いは彼の仮面だ。仮面の下に、逆恨みが育っている。ニコラが逆恨みを育てる理由は、誰にもわからない。彼自身さえも説明できないからだ。

 彼は何かに取り残されていく恐れを、誰かにぶつけることで紛らわそうとしていた。自分よりも余裕を持っているように見える者がいると、自分の惨めさが一層際立つ。その惨めさを打ち消すには、相手を汚すしかない。

 だからニコラは、ジャンの落ち着き払った静けさを憎んでいだ。ニコラがイラついて親方にかみついている間にも、ジャンは台の端で針を取り、黙って作業を引き受けた。誰よりも先に動くのは目立つと分かっていたが、いまは動かなければ店は回らない。ジャンが預かったコートの裏地をめくると、傷んだ縫い目が現れた。ほどく糸は短く切れ、切れた端が指に絡む。

 店の奥では古いミシンが唸るように鳴き声を上げていた。唸りは頼りになる音ではない。油が足りず、歯車が少し噛む音だ。歯車が噛めば、針が折れやすくなる。ここにはもう次の針がない。針がない仕立て屋は、ただの布切れ屋になってしまうから、職人たちは慎重にミシンを走らせていた。

 ルノーは棚から布を引き出し、裁ち台の上で何度も測り直していた。何度、測ってみても布は増えてくれない。それでも繰り返し測る。

「縫い代を削るしかないな」

「縫い代を削ると裂けやすくなってしまいます」

「そんなことはわかってるさ。だが、どうしようもない。裂けてもいい。裂けたらまた直せばいい」

 ルノーの言葉は荒いが、手先だけは誰よりも丁寧だ。

「直しているあいだは、まだ生きていられるからな」

 ルノーはそう言い終えると、ジャンの手元を見た。針先に親方の厳しい視線が刺さる。

「ジャン、お前は丁寧すぎる」

「縫い目が乱れれば、会所の目が……」

「縫い目の乱れよりも、おまえのその丁寧すぎる仕事のほうが人の目を呼ぶ。人の目は……」

 ルノーは何かを言いかけて、続きを飲み込んだ。飲み込んだのは忠告ではない。見えないところに忍んでいる恐れだった。ジャンは返事をしなかった。返事の代わりに針を布へ沈め、針目の幅をわずかに変えた。

 午前のうちに客の男がやってきた。コートの袖口を差し出し、イラついた様子だった。

「早くしてくれ」

「順番があります」

「急いでるんだ」

「今日中には、なんとか」

「どうせ会所の仕事が先なんだろ」

 ひとりの客の男が吐き捨てるように言った。その言葉が店の空気を硬直させる。ジャンは男からコートを受け取り、ほつれた裂け目の癖を読む。布の裏をなぞる指先が、必要以上に整っている。だが整いには知らずのうちに出自の匂いが混じることがある。鼻の利く者にだけ届く。

 続いて店に入ってきたのは、回廊の古参ブリュノー夫人だった。彼女は籠を抱え、誰に挨拶するでもなく、棚の端切れを指で撫でる。撫でた指が止まったのは、気に入った布があったからではない。視線の先に飛び込んできた人の所作だった。

 ジャンが針を通し、糸を締め、結び目を布の裏へ沈める。夫人の鼻先には、何かの匂いが混じっているようだ。古い香水の残り香。古くても磨かれた靴。

「若いのに、指が上品だこと」

「上品だって? こいつはただの下働きですよ」

 ニコラが嫌味たっぷりに笑いながら口を挟む。口が先に出るのは、弱い者の癖だ。弱いものほど先に人を指さして自分を守る。

「似合わないやつが、そんな風にしてるから目立つんだ」

「似合うとか似合わないとか、縫い目には関係ないわ」

 ブリュノー夫人は真剣な目でそう言うと、手に持っていた籠の中から古い手袋を出した。指先が擦り減り、縫い目がほどけている。彼女はそれを台の上に置き、ジャンの指先を見た。

「直せるかい」

「はい」

 ジャンはいつものように、彼女から丁寧な仕草で手袋を受け取った。夫人は店を出て行く前に、手にしていた籠の中から硬いパンの欠片を一つ取り出し、ジャンの作業台の端へそっと置いた。

「これを」

 彼女はそれ以上何も言わずにその場を去った。ブリュノー夫人は仕立て屋から少し離れた回廊の明るいところへ出るまで、足を止めずに歩いた。立ち止まれば、振り返りたくなる。彼女は籠の取っ手を握り直し、昔の記憶を呼び覚ましかけてすぐにやめた。昔の記憶は匂いとして残る。ここには匂いに反応する者がいる。匂いはいずれ誰かに牙をむく。

 作業台の端に置かれたパンの欠片は小さい。ジャンはその破片を横目に見ながら、ブリュノー夫人の振る舞いに不思議な感覚を抱いていた。

 夫人が店の戸口を出るとき、回廊の光が一瞬だけ彼女の頬を照らし、彼女の皺の間には、懐かしさを感じさせる昔の面影が残っている気がした。それは、かつて別の世界の庭で見た景色だったかも知れない。ジャンは視線を落とし、針の先へと意識を戻した。

 昼が近づくほど、店は荒れた。会所からの急ぎの仕事が重なり、腕章、コート、札入れの補修、巡回の袋の縫い直しが積み上がる。ルノーは帳面の端を指で押さえ、何度も唇を噛んだ。奥の作業場からは職人たちの声が飛び交う。

「親方、布が足りません」

「糸だってもう限界です」

親方がイラついた様子で振り返る。

「足りないなら、削れるだけ削るんだ。削ってでも体裁は整えるんだ」

 ニコラの苛立ちは、手元ではなくいつも減らず口になって噴き出す。

「親方、あいつだけ、なんで会所の仕事ばっかりなんだ?」

「仕事が早いからだ」

「早いって? 丁寧すぎて気味が悪いだけだけだろ」

 ルノーは返事をしなかった。ニコラの声はジャンにも届いていたが、ジャンは気にも留めることなく縫い目を揃え続けた。縫い代を削り、裏地を継ぎ、端を沈める。昼の鐘が鳴る前には、会所から依頼されたコートの3着が並んだ。

「三色章の糸は、見えないように仕上げるんだ」

 ジャンは黙って指示通りの仕事をこなしていく。目の前に並んだコートは新品ではない。継ぎ接ぎもあれば、所々に色の違いもある。布の目も不揃いだ。それでも、縫い目だけは整っている。

 その整った縫い目が、ここでは正義のふりをする。会所からの使いの男が引き取りに来ると、ルノーは必要以上に丁寧に頭を下げた。男は礼を言うこともなく、当たり前の顔をして去って行った。

密かな約束

 その日の午後、クレールは回廊にいた。会所の用でもないのにここへ来ることが、危険なことは彼女も知っている。それでも彼女のなかに灯った恋の炎は、すでに、その危険をも乗り越えようとする強い意志へと変わりつつあった。店の前を通り過ぎるふりをして、店の脇にある小さない柱の陰に隠れた。

 どこかに父の目があるかも知れないことに怯えながら、視線だけを仕立て屋の入り口へ滑らせる。客の見送り店の外へ出てくるジャン。

「…… ジャン」

 そう呼びかけそうになって言葉を飲み込むクレール。客が見えなくなるのを確認して、店内へ戻ろうと向きを変えたジャンの視線がクレールの姿をとらえた。ジャンはそのまま店の中に入り、親方に言った。

「親方、さっきの客が忘れ物をしたようなので、届けてきます」

「忙しいんだ、急いでな」

「はい、すぐに戻ります」

 そう言ってジャンは店を出ると、人目を気にしながらクレールの元へ駆け寄った。

「すぐに戻らなければ」

「ごめんなさい、ここまで来てしまった」

「ここはひと目に着く、もっと奥へ」

 二人はひと目につかないよう、柱の奥へ身を隠した。

「今朝、父に言われたの」

「何を」

「回廊へ行く用が増えたのかって。父は見ているのかも知れない……」

 クレールの声は震えていた。

「ここで会うのは、よくない」

「分かっているわ、でも……」

 クレールは声を落とし、手袋の縫い目を指でぎゅっと押さえた。

「場所を変えよう」

「でも、もう、会所の前も危ない……」

 ジャンは、いちど彼女から視線を逸らし、静かに息を整えた。

「会所でも回廊の庭でもなく、人がいるのに声が届きにくい場所……」

「いい場所があるわ。礼拝堂の前の石段はどうかしら。あそこなら人の出入りはあるけれど、みな祈りに集中しているから」

 だが祈りもまた、誰かの手順に拾われることがある。

「危険じゃないか?」

「今はどこに居たって危険だわ。でも、ここよりはまし」

 クレールの目に迷いはなかった。彼女の瞳の奥で小さな覚悟が芽生えていた。ジャンは彼女をまっすぐに見つめて言った。

「分かった。明日の夕刻、祈りの鐘が鳴る前に」

「ええ、明日の夕刻」

 柱の向こうに映し出されていたふたつの影が重なって、ひとつの影になる。

「もう、もどらないと」

 ジャンが言うと、クレールは小さな包みを差し出した。包みに入っていたのは、白い石けんの欠片だった。彼はこれを受け取ることが、自らを危険に晒すことになるかも知れないことを知っていた。だが、彼は無言で包みを受け取った。今は、石けんのこの香りが、少しだけ不安をかき消してくれるような気がしていた。

 彼は包みをコートの内側へしまうと、クレールに先に行くように目で合図を送る。クレールが背中を向けたその瞬間、彼女が人波へ溶けていくのを見届ける代わりに、二人の後ろに、もう一つ影があることに気付いた。影は短く、男の姿をしている。どこか店の中で見慣れた男の歩き方に似ていた。

 ニコラだ。彼は二人から少し離れた柱の陰に身を隠し、ずっと様子をうかがっていたのだろう。ジャンはわざと視線を逸らし、気づかない振りをして、何もなかったように店へ戻った。わずかに遅れてニコラも店の裏口から入ってくる。ニコラの目は待っていた獲物を見る目をしていた。

「誰と話していたんだ?」

「関係ない」

「会所の娘か」

 ニコラは言い切ると、わざと針山を指で弾いた。針が一本、板の上で転がり、小さく光る。

「こいつのお相手さんが会所の娘なら、親方も頭が上がらねえな」

「やめろ」

 ルノーが低い声で言った。

「何だよ。親方だって気になってるんだろ?」

「黙って手を動かせ」

 ニコラは笑いながら奥の作業場へと戻っていった。ジャンにはわかっていた。ルノー親方は気にしていないわけではない。あえて見ないふりをしているのだと。見てしまえばそれが形になって店の中に線が引かれることになる。一度引かれた線は、二度と消すことができない。ジャンは無言で針を取った。答えないことが答えになると、彼は知っていた。

会所へと繋がる噂

 夕刻、回廊に明かりが灯るころ、あちらこちらの酒場で戸が開かれる。グラスがぶつかり合う音が外へ漏れ、あちらこちらから笑いが響く。跳ね上がった笑い声は、次の瞬間には囁きに変わる。囁きはたちまち噂になって回廊を駆け巡る。ニコラは仲間の肩を叩きながら、酔った振りをして、わざと大きな声で話し出した。

「聞けよ。あの下働き、会所の娘と繋がってる」

「本当か?」

「本当だ。昼間、二人が会ってるところを見たんだから、間違いない」

「そりゃ、すげーや」

 仲間が前のめりになって興味を示したことに、ニコラはご機嫌になって続ける。

「あいつらは、縫い目みたいなもんだな」

「縫い目?」

「見えないところで繋がってるってことだ。ほら、縫うだろ。表は何もないのに、裏で結ぶ」

「上手いこと言ったつもりか」

 ニコラの周りで、笑い声がひときわ賑やかに響き渡る。

「あいつの縫い目は、とびっきり丁寧だからな」

 ニコラは嫌味たっぷりに毒を吐きながら、ビールを飲み干し喉を鳴らした。

「上品ってのはな、爪の形で分かるんだ」

「爪?」

「あいつの爪は短いのにやけに揃ってる。揃えるだけの余裕があるってことだ」

「余裕があるようには見えねぇけどな」

「あるさ」

 ニコラは即答した。

「あいつは、何があったって声を荒げない。荒げたら損するって知ってるやつだ」

「なるほど」

「俺みたいに朝から晩まで毒はいてるヤツとは、“品が違う”ってことだな」

 ひらきなおったようにニコラが笑った。ニコラの言葉は乱暴だったが、理屈だけは妙に整っている。整った理屈は、それが正しいかそうでないかに関わらず、周囲の人を納得させやすい。

「それで、お前さんが見たのは、本当に会所の娘だったのか?」

「ああ、間違いない」

 酒場の隅に、見慣れない男が座っていた。服は地味で、顔も地味だ。地味な者ほど人の噂を食うにはふさわしい。男はなみなみ注がれたグラスには口も付けず、背中越しにニコラの声だけを拾っている。ニコラが少しだけ声を落とし、仲間の耳へ顔を寄せた。

「あの下働き、どうも育ちが違うんじゃないかって、皆が言ってるんだ」

「誰が言ってるって?」

「贔屓にしてくれてるブリュノー夫人も、何かを嗅いだ顔してたな」

「夫人が?」

「夫人は言わなかったけど、あの目は何か“昔の匂い”を嗅ぎつけた目だな」

 昔の匂い。その言葉は一瞬にして酒場の空気を冷やす。昔を語れば、誰かが正義の刀を振り下ろそうとする。

「どうだ、役に立つ話だと思わないか?」

 ニコラが言うと、背後に座っている地味な男の目がわずかに動いた。

「役立つって、誰にだよ」

「決まってるさ、会所だよ。あそこの連中は何でも知りたがる。まあ、俺もよくは知らねえけどな」

 地味な男はニコラの話をそこまで聞くと、おもむろに立ち上がり店を後にした。回廊を抜け、裏通りを歩き、路地の壁の脇で一度だけ立ち止まった。袖口から小さな紙片を出し、回廊、仕立て屋、丁寧すぎる下働き、会所の娘、酒場で聞き取ったことをメモした。男は紙片を折り、コートの内側へ押し込んだ。

 会所の裏手の小門の前で、彼は巡回の男に短く頷いた。頷き返した男は、何も問わない。それだけでこの地味な男が会所の委員であることを物語っていた。そして、地味な男は廊下の奥へと消えていく。

 突き当りの部屋からは笑い声が漏れていた。扉の向こうではラクロワ委員と男たちが談笑していた。机の上では紙の擦れる音がしている。この紙きれが列を動かし、巡回を動かし、人の名を動かす。

 地味な男は扉の前で足を止め、扉を叩く。部屋の中の笑い声が鎮まる。

「こんな時間に、誰だ」

「ピエールです、役立つ話を持ってまいりました」

 返事はすぐには返らない。沈黙が一拍置かれ、次に椅子を引く音がした。

「入れ」

 パレ・ロワイヤルの仕立て屋では、明かりを落とした後も、片付けが続いていた。ジャンが作業台の端に残った糸屑を指で集めて紙に包み、針箱の底へ沈めた。回廊の外で風が鳴いていた。強風に煽られたどこかの扉が大きな音を響かせている。

 ルノーが身をすくめる気配がした。親方もまた、何かに怯えているうに見えた。針は布を刺す。刺した痕は、表からは見えないこともある。だが、見えない痕ほど、痛みは遅れてやって来るものだ。

 ルノーは表の扉の内側から鍵を確かめた。鍵を掛け終えると、彼はジャンに布片を一つ差し出した。布片はくすんだ色をしていた。どこかのコートの裏から外したものだ。新品ではないが、まだ十分に使える。

「余りだ。明日の作業に使えるだろう」

「ありがとうございます」

 ジャンは布片を作業場の棚へしまい、コートを羽織った。コートの内ポケットからはほのかに石鹸の匂いがしていた。

 同じ刻、クレールは部屋の窓から夜空を見上げていた。明日の夕刻、礼拝堂の石段。その約束を思い出すだけで胸が高鳴る。そのとき、廊下で鍵束の揺れる音が小さく響いた。父の足音が扉の向こうで止まる。扉の向こうで父が息を吐き、足音は遠ざかっていった。

 父が遠ざかっていく音に救われた気がしていた。そして次の瞬間に、その気持ちを恥じた。救いは、また別の嘘を必要とする。彼女は灯を落とし、目を閉じた。息を吸うたびに結び目は増えていく。増えた結び目は、ほどけずに朝を待つーー。

【見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2部 刃(やいば)の手順 第7章 父とジャンの対面】の更新予定は2/23です。

 

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