【ブログ小説】やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第7章 結婚の不許可

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 1932年、不況と不穏な空気がロンドンの路地裏にも染み込むなか、小さな珈琲店は今日も変わらぬ静けさを保っている。

 寡黙な店主リックは、議論で勝たず、誰かを追い出さず、ただ湯気と間合いで人の呼吸を整える。常連たちが抱える失業や怒り、上流の客が持ち込む“外では言えない用件”、そして“黒い言葉”が忍び寄る気配。

 そこへ通うクレアは、祖父が遺した癖や言葉を手掛かりに、店に漂う不思議な信用の理由へ少しずつ近づいていく。

 やがて明かされるのは、誰かを裁くための真実ではなく、沈黙が守ってきた日々の手順。階級や時代の裂け目のそばで、同じ一杯がそっと差し出される。

そんな“やさしさ”の物語。

主な登場人物

開く

リック・エヴァンス
ロンドンの路地裏で小さな珈琲店を営む高齢の店主。丁寧すぎる所作の奥に、語らずに生きてきた過去がにじむ。

クレア・コックス
リックの店に通う常連客で、落ち着いた観察眼を持つ女性。

メイベル・エヴァンス
リックの妻であり、店の土台を作った共同創設者。

▪ランドルフ・コックス
ヨークシャ地方にある地主の屋敷で執事を務める。

▪アーロン・ディクソン
ランドルフの知人で、ロンドンの資産家

前回のストーリー

第2部 店が交差点になる

第7章 結婚の不許可

甘さを遠ざける静けさ

 路地裏の石畳は黒い光を持っていた。煤の匂いが薄く残り、遠くの車輪音が壁に当たって丸くなる。表通りの喧噪は、角をひとつ曲がっただけで急に弱まる。小さな珈琲店の主人リック・エヴァンスは、湯気の立つポットを持ち上げ、注ぎ口から出る白い息を一拍見送った。

 窓の内側には薄い曇りが残り、外気が指先から体温を奪っていく。客の靴音は石畳に吸われ、扉の蝶番が少しだけ音を立てる。ロンドンの喧騒を忘れさせる音の少なさが、この店の呼吸だった。砂糖壺は磨いたばかりで、蓋の縁が鈍く光る。だが今朝は、そこへ手が伸びる気配がない。恐慌吹き荒れる冬の街にはこの甘さは少し重い。リックは壺を客の手元から少し遠ざけ、代わりに温めたカップを置いた。音は小さく、しかし場の輪郭を整えるには足りた。

 常連客のトムが手のひらを擦り合わせ、笑いとも溜息ともつかない息を吐いた。彼の指は煤で黒ずみ、爪の縁が欠けている。向かいに座るエミリーがシャツの襟元の紐をいじりながら窓を見た。窓の外には薄い陽が戻りかけている。

「きょうは珍しく太陽を顔を出しそうだね」

 ここのところずっと続いていた雨には、もう飽き飽きしているといった風にエミリーがため息をついた。すると、トムが大きなため息をひとつついてから切り出した。

「妹が結婚するって言うんだ」

 言葉の底に硬さが沈む。エミリーは一拍おいて、軽く返す。

「それはよかったじゃないか。で、お祝いはどうするのさ?」

「祝い? そんな余裕があるなら、石炭を買うね」

 トムは軽口をたたきながら笑うが、目は笑っていないようだった。

 そしていつもの時間に入口の鈴が鳴り、また一人、常連客がやってきた。カウンター越しのリックに軽く目で挨拶をすると、入口寄りのいつもの壁際の席に座るクレア。コートを椅子の背に掛け、静かに丁寧に椅子を引いて腰かけた。

「温かい珈琲を」

 リックは沸かしたてのお湯で珈琲をたて、カップに注いでクレアの前に置いた。カップの取っ手に指を添えたまま動きを止めるクレア。常連たちの会話は続いていた。

「それにしても、よくこんなときに結婚しようなんて考えたもんだね」

「いくら待ったって、この世の中が変わるとは思えねぇしな」

「言えてるね」

 クレアの指先に、ほんのわずかな力が込められたことに気づいたのは、それを観察しようとする者だけだ。リックは見て見ぬふりをした。結婚という言葉は、この時代では祝詞ではなく、合図に近い。誰の合図か。家の、町の、階級の、目に見えない署名のための合図だ。リックは砂糖壺の蓋を閉め、手の平で押さえた。

許可の重さ

 ふたたび扉が開くと、通りの冷気がひとすじ店内に流れ込み、湯気の輪郭を揺らす。入ってきたのは若い女と、少し年が上に見える男だった。

 女は帽子を深くかぶり、コートの前を固く留めている。仕立てはきちんとしているが、袖口にわずかに綻びを直した跡が見えた。男は背筋をピンと伸ばし凛としているが、女はどこかに居場所を探しているような目つきをしていた。

「いらっしゃいませ」

 男女は入口近くの席へ滑り込むように座った。

「熱いのを一杯」

 女が言った。男はカウンター越しのリックに話しかける。

「彼女の……、その……、話を少しだけ聞いてもらえますか」

 誰かを頼るような言い方ではなかったが、頼りたいのを隠す言い方ではあった。リックは黙って頷き、熱い珈琲をカップへ注ぎ入れると、二人の前へ置いた。緊張していた女の肩が少しだけ緩む。男は椅子に浅く腰掛け、膝の上で帽子を握り締めた。帽子の縁が少し歪んでいる。トムは、そこに漂う気まずさを笑いに変えようとして口を開いた。

「結婚の相談かい。めでたいじゃないか」

 女の顔がこわばる。その様子を不安そうに見つめながら男が口を開いた。

「めでたいはずなんです。でも家が……どうしても“うん”と言わない」
 
 女が小さな声で続ける。

「家柄が違うって……。あっちは事務所勤めで、ちゃんとした家の人で、うちは……工場の下働きで」

 エミリーが不思議そうに目の前の男女を交互に見た。

「あっち……って、あんたたち二人の結婚話じゃないのかい?」

「私は兄です」

「なるほどね」

 自分たちの勘違いに気付いたエミリーとトムが、顔を見合わせて笑う。

「妹の相手の親が、“工場”の名がつくだけで顔をしかめる親戚がいると、結婚を認めてくれないらしくて」

 女は顔を上げない。恥をかくのは自分だと決めてしまった者の姿勢だった。

「確かにうちには余裕がありません、でも……」

 男は言いかけて、口をつぐんだ。言い訳は救いにならないと思ったからだ。クレアは同情と反発の間で言葉を探す。

「それにしても、工場で一生懸命働くのが恥だなんて、変な話だね」

 エミリーの言葉にトムが即座に返す。

「変じゃないさ。あっちは、手の指一本だって汚れやしないところで生きてきたんだろうよ。奴らにはそれが普通なんだ」

 声が少し強くなり、空気が尖りかける。尖りは怒りではなく、自尊心の表れだ。クレアは相変わらず口をはさむことなく壁際の席に静かに座っている。だが、視線だけは若い女から外さない。

「結婚するには、許可が要るんです……」

 女が言った。言葉の響きが店の空気に重く落ちた。妹をかばうように男が苛立ちを隠さず、吐き捨てるように言う。

「家柄の違いがなんだというんです?同じひとりの人間同士が一緒になるのに、許可が要るなんておかしい……」

 若い女は、首を振るでもなく頷くでもなく、ただ指先を組み直した。

「彼も、親が認めてくれないとって。私の父が頭を下げても『そういう方』とは釣り合わないって……」

 クレアがカップを持ち上げ、ひと口だけ飲んだ。熱が喉を通る音が、静かに体の中に響く。彼女は視線を女に戻し、言った。

「許可が下りなければ、人は人じゃなくなるのですね……」

 誰にも返す言葉が見つからなかった。女は視線をテーブルへ落とし、兄は妹の肩にそっと手を回す。若い女が、腹の底から絞り出すような声で言った。

「認めてもらえないと……私は、何者でもないみたいで」

 声が震える。リックはカップを温め直し、若い女の手元にそっと寄せた。

「今日は冷えます」

 言葉はそれだけだった。若い女は少し驚いたように顔を上げる。

「ありがとう」

 両手でカップを包み込んだまま、つぶやく。

「どうすれば……」

 女の唇の端が震えていた。そしてクレアの、穏やかで優しい声が語りかける。

「今は、息を整えてください」

 トムとエミリーはクレアの言葉の意味が理解できず、顔を見合わせた。だが、若い女は目を閉じ、短く息を吸った。店に漂う湯気がその息の形を変える。兄も同じように息を吸い込み、静かに吐く。わずかに二人の落ち着きが戻ったようではあったが、それでこの問題が解決できるわけではない。

 許可。許可。許可。若い女の口から落ちたその言葉が、リックの心の中で古い扉を押していた。その扉はとても重い。屋敷の扉の重さと同じだ。湯気の匂いが、蝋燭と磨かれた木の匂いにすり替わる。スプーンが縁に触れる微かな音が、磨かれた床を歩く靴音に変わった。

選択が灯す行き先

 ノース・ヨークシャーの空は、ロンドンより広かった。冬の前の湿った風が丘を渡り、領地の端の木々を揺らす。エヴァンス家の書斎には、外の音がほとんど届かない。石炭の火が静かに燃え、革張りの椅子が沈黙を吸い込む。

 30歳になったばかりのリックは、背筋を伸ばして立っていた。父は机の向こうで手紙を一枚置き、指先でそれを押さえた。母は窓際に立ち、カーテンの端をつまんでいる。そこに家族の穏やかな団らんはない。あるのは、許可が下りないという事実だけだ。

「君の幸せを思っている」

 父は落ち着いた声で言った。言い方は柔らかい。しかしその柔らかさが、逃げ道を塞ぐ。

「結婚は個人の感情ではない。家が君を守る」

 守る。守られる。その言葉が鎖のように響く。リックは一度だけ息を吸い、言葉を選んだ。

「守られるために生きているわけではありません」

 父の眉がわずかに動く。母が先に口を開いた。

「恥をかかせないで」

 恥。家名。領地。相続。噂。父と母の言葉の背後に、それらが整然と並んでいる。二人は悪人ではない。彼らの世界では、家を守ることが人を守ることだった。守られなければ生き残れない者がいると、彼らは知っている。

「彼女が良い娘だということは知っている」

 父は言った。良い娘。評価の言葉が許可の装置の一部になる。

「だが、そうではない。君とは背負っているものが違う。領地は我が家だけのものではない。借地人も、雇い人も、このエヴァンス家の名の下で生きているんだ」

 父の言葉に反論することは難しい。父は自ら家名を守ることで、誰かの生活を切り捨てることなく、ここまで生きてきたのだ。家を守ることが、彼の誇りだった。母は窓の外を見たまま言う。

「噂は、屋敷の壁より薄いのよ。ひとたび入ってしまったら、消えることもない」

 リックは黙ってうつむいた。

「彼女の身の上を案じている」

 父が言葉を重ねた。

「生活の支度は用意しよう。結婚ではない形でだ。君の名は汚さず、彼女の暮らしも守れる」

 リックの表情が変わる。それは施しと同じだ。施しはときとして相手の尊厳を踏みにじる。父には“彼女の暮らしを守る”という結果しか見えていない。

「彼女は、守られるだけの人ではありません」

 リックはできるだけ冷静に、声を荒げないように意識して言った。

「分かっている。だからこそ、余計に危ういということが、なぜわからないのだ」

 危ういのは彼女ではなく、家の秩序だ。家族の中でこの秩序が崩れてしまえば、リックは生きていく術を失いかねなかった。彼はその恐れの中で、努めて誠実に振る舞おうと努力していた。

 書斎の壁際には、リックを幼いころからよく知る執事が立っていた。ランドルフ・コックス。彼はもちろん発言などしない。ただ、給仕の準備を整え、沈黙の形を崩さない。沈黙は鎧だと彼は知っていた。リックはランドルフの横顔をチラリと見てから、父に向き直り言った。

「私が選びます」

 父はリックに鋭い視線を向けて言葉を強めた。

「選ぶ? 君は、この家を捨てるというのか」

 父の声には研ぎ澄まされた棘が混じっっていた。だがその棘は、怒りというより恐れだ。

「捨てるのではありません。ただ、ここでは、息ができない……」

 リックの言葉に、母の肩が小さく震えた。

「リック、お願い。考え直して。あなたのためなのだから」

 母のその言葉の優しさは本物だった。だが優しさは、時に相手の人生の可能性を閉じてしまう。リックは目を伏せることなく、まっすぐに母の目を見て答えた。

「私のためと言うのであれば、私に息をさせてください」

 書斎には暖炉の火の音だけが残った。ランドルフは静かにサイドテーブルにティーカップを置く。わずかに響く陶器の音。リックはその音に、礼儀という鎧の効き目を感じていた。

 リックは部屋へ戻り、一通の手紙を書き残した。謝罪ではない。この屋敷への礼儀としての決別を告げるための手紙だった。彼は家名の刻まれた指輪を指から抜き取り、机の引き出しに手紙と一緒にしまった。指輪の分だけ指が軽くなったが、リックの心には不安と言う見えない重りがのしかかっていた。だが、彼の決心はゆるがない。

 その夜、リックは誰にも見つからないように静かに裏の門から屋敷を出て町の小さな工場へ向かった。メイベルは小さな作業場でまだ働いていた。部屋の窓からリックに気付いた彼女は、驚いた様子でリックを部屋の中に招き入れた。部屋の中には彼女しかいない。机の上には作業途中の小さな部品が並んでいた。

「許可が出ないんだ」

 リックが言うと、メイベルは落ち着いた様子で彼を見た。

「あなたの家は、あなたを守っている」

 彼女は淡々と言った。

「私の暮らしは、こうして私が守ってきた。守り方が違うだけよ」

 かすかにほほ笑みながら彼女は続ける。

「私が原因だと、言わせないで」

 メイベルの目は真っ直ぐにリックを見つめていた。

「はじめからわかっていたことだわ。あなたには守らなければならない家があるの」

 リックは黙ったまま彼女の言葉を聞いていた。

「私が身を引けば、あなたは戻れる」

 メイベルの目は覚悟をもった者の強さ持っていた。

「戻らない……」

 リックはメイベルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、まっすぐ彼女の目を見つめて言った。リックは恐れていた。彼女を失うこと以上に、あの息が止まる場所へ戻るという恐れだ。メイベルは小さく息を吐き、作業用の手袋を外して机の上に置いた。

「後悔しない?」

「自分の生き方は自分で選ぶ」

 メイベルはしばらくの間リックをじっと見つめたあと、小さく頷いた。

「あなたが選ぶなら、私も選ぶわ」

 そのとき、扉の外で足音が近づいてくることに気づき、二人は緊張した面持ちで扉のほうを見た。扉の向こうから指の節が3回、扉を叩く音が響く。扉の横の窓の向こうに見慣れたシルエットが映る。リックがそっと扉を開けると、そこにはランドルフが立っていた。いつもならリックの前では帽子を取るランドルフだが、扉の前の彼は帽子を取らないまま、しかし、所作は丁寧で、屋敷の鎧を着たままやって来たのがわかった。

「夜明け前の列車がございます」

 リックよりも先にランドルフが口を開く。命令ではない。彼はリックに情報を告げに来ただけだ。情報は誰の顔にも泥を塗ることはない。

「荷物は少なく。手袋をお忘れになりませぬように。風が冷えます」

 リックがメイベルを見て頷くと、メイベルは身に着けていたエプロンを手早く外し、丁寧に畳んで整理棚に置いた。

「明朝、夜明け前に使いをよこします。それまでにご準備を」

「わかったわ」

 夜明け前の屋敷の勝手口は、ひどく静かだった。犬も鳴かなければ、人の出入りもない。少なくとも人の出入りがないのは、そうさせる誰かの手が、どこかで働いているからだろう。ランドルフはそこに立ち、扉の影を背負っていた。リックはリックは手袋をはめ、小さなボストンバックを手に、勝手口を出た。

 少し離れたところに用意された馬車には、メイベルが心細さを隠すように真っすぐ前を向いて座っていた。リックは馬車の扉の取っ手に手をかけた。その重さが手のひらから腕を伝わり彼の心を揺さぶる。許可されない者の重さだった。

「戻る道は、いつでも用意されています」

 ランドルフが言った。

「戻らないのなら、自らの力で立つ場所をお作りなさい」

 その言葉の中に、ランドルフの想いが詰まっていた。リックは礼の代わりに、小さく頷いた。メイベルも同じように頷く。駅到着し、二人が馬車を降りたとき、ランドルフはリックにひとことだけ告げた。

「ロンドンに、アーロン・ディクソンという方がいらっしゃいます」

 それ以上は言わず、彼は小さなメモ書きをリックに手渡した。リックは渡された紙片を胸ポケットにしまい、ランドルフと固い握手を交わす。どんな感謝の言葉もここでは無力だ。リックは黙ったまましばらくの間ランドルフを見つめ、そして、静かに背を向けた。

 列車は黒い息を吐き、リックとメイベルを北の空から切り離し、少しずつ息が吸える方向へと二人を運んで行く。リックは窓の外に流れるヨークシャの丘を見つめながら、“選択した人生”がどんな答えを導き出すのかを考えていた。そして、両手をぎゅっと握りしめた。

 ロンドンに着いてからの数日間、二人は何度も道に迷いながら宿を転々としていた。大通りは眩しく、視線が多い。やがて二人は、次第に視線の少ない路地へ吸い込まれていった。そこでは自由に息が吸える気がしていた。誰にも許可を求める必要のない場所。

 二人が最初にアーロン・ディクソンを訪ねたのは、ロンドンに来て1週間ほどが過ぎた頃だった。

「ランドルフとは学生時代からの知り合いなんだ」

 中肉中背の上品な佇まいのアーロンは、不動産事業で成功をおさめたロンドンの資産家だった。上流の家柄で育ったというわけではなかったが、今ではロンドンでは彼を知らない人はいないというほどの人物だ。

「ランドルフから久しぶりに連絡があったかと思えば、屋敷のお坊ちゃまが駆け落ちするっていうじゃないか」

 アーロンは二人を見ながらかすかに笑みを浮かべている。

「いやなに、からかってるんじゃないんだ。大したもんだと思ってね」

 その言葉に棘はない。リックとメイベルの緊張は少しずつほどけていく。

「私の家は上流階級と呼べるようなものではなかったが、かと言って、労働者階級っていうのでもなかったから、ひとまず満足にそれなりの学校には行かせてもらったわけだ。で、そこでランドルフに出会った、というわけだな」

 リックがここでようやく口を開いた。

「ランドルフには子どもの頃から世話になりました。彼は私にとって恩人です」

「奴は若い頃からまっすぐな男でね。かといって堅物でもない。私も何度彼に助けられてきたことか。そんなランドルフのたのみとあっちゃあ、君たちを放っておくわけにはいかないわな」

 アーロンは、ソファにもたれかかった背を少しだけ前に傾け、リックとメイベルをじっと見た。

「で、これからどうするか、君たちは何か考えているのか?」

「いえ、まだ……」

 うつむき気味にリックが答える。

「身一つでロンドンに出てきて、二人だけで生きるってのは、簡単なことじゃない」

 アーロンの表情が少しだけ厳しくなった。

「だが、君たち次第で、どうにでも人生は変えられるものだ」

 そう言いながら、アーロンは1枚の地図を二人の前に広げた。

「二人で店をやってみてはどうだい」

「店……ですか?」

「ちょうどこの路地裏に、小さな物件があってね。3か月ほど前までパブだったんだが、オーナーが店を閉めて田舎に帰っちまったもんだから、今は空き家なんだ」

「ロンドンの表通りは、あらゆる人が出入りするから人の噂が駆け巡るのも速い。だが、この路地裏なら、光は少ないが、その分人の視線も少なくて済む。二人で静かに過ごせると思うが、どうだろう」

 リックとメイベルは互いの意志を確認するかのように頷き合った。

「よし、決まった。話が決まれば早いほうがいい。これから店を案内しようじゃないか」

「ただ……」

 リックが不安そうに言葉を続ける。

「私は家を出た身です。準備できるお金も限られています。契約金や家賃……」

「いらないさ、そんなもの」

 アーロンが呆れたように笑いながら、リックの言葉を遮った。

「お金をもらうつもりだったら、最初から家で息子なんて引き受けないさ。君はランドルフの大切なお坊ちゃんなんだ。つまり私にとっても大切なお坊ちゃんだ。安心して私に頼ればいい」

お坊ちゃんという言葉が少々引っかかりはしたものの、彼の言葉に嘘がないと信じられるだけの温かさをリックは感じていた。

「必ずいつか、ご恩返しを……」

そう伝えたメイベルの瞳には涙が浮かんでいた。

 アーロンに案内された路地裏の小さな店。その店はそれから50年以上のときを今も変わらず刻んでいた。湯気の匂い、カップの縁。客の咳払いーー。

 年老いたリックは今日もカウンターの内側に立っている。さっきまで結婚の悩みを語っていた若い女は席を立ち、コートの襟を正した。兄は妹の様子を気にしながらカウンター越しのリックに声をかける。

「ありがとうございました」

 なにひとつ結論は出ていない。だが、この場所で誰も結論を求めてはいない。ただ、自分らしく息をするためにやって来る。扉が閉まると、常連たちも言葉を失ったままカップに残っている珈琲を飲みほした。

 扉のガラス越しに、兄と妹の背中が遠ざかるのが見えた。二人は路地の出口で立ち止まり、横切る馬車の列を待つ。妹はコートの襟を指先で押さえ、深く息を吸ってから、角を曲がった。

 砂糖壺は、相変わらず手が伸びない位置にある。リックは壺の蓋をもう一度確かめてから、音を立てずに元へ戻した。エミリーがぽつりと言う。

「許可って、紙の上で出たり引っ込んだりするのかね」

「紙の上だけなら、まだいいさ。顔の上で決められるのは一番きついわな」

 そう言ってトムが肩をすくめると、クレアがカップを置き、少し遅れて言った。

「結婚は、お互いの幸せだけでは……決まらないものですね」

 リックは肯定もしないが、否定もしない。ただ、彼女のカップを温め直して言った。

「決まらない間は、決めなくていいのでは」

 クレアはそれに小さく頷き、カップに掛けていた指先をほどいた。クレアは立ち上がってコートを羽織ると、カウンターに硬貨を置いて、いつもの言葉を添えた。

「お手を煩わせました」

「また、おじゃましてもよろしいでしょうか」

「いつでも」

 クレアは小さく頷き、軽く会釈をして扉へ向かった。クレアが扉の前で手袋をはめ直していると、窓の外を、仕立ての良いコートを着た人影が通りすぎた。足音は石畳に吸われ、店の中までは届かない。常連客たちは気づかなかったようだが、リックはその影が、まるでこの店の場所を確かめるような視線を落としていくのに気づいていた。そして、クレアも。

 閉店の時間が来ると、リックは椅子を整え、床の隅の塵を拾った。誰かの居場所を先に作る癖は、今も変わらない。片付けが終わるとようやく店の奥の棚に手を伸ばし、古い帳面の背を撫でる。

 紙は時間を吸い、指先に冷たさを残していく。リックは懐かしい妻メイベルの面影を帳面に映しながら、また、そのまま元あった場所へと戻した。

 湯気が消え、路地の静けさが戻ってくる。リックは灯りを落とし、扉に手をかけた。重い扉は外の世界を遮る壁であり、彼が立つ場所の境界線でもある。

 扉の鍵を回すと、金属が小さく鳴った。許可は、時に鍵の音に似る。閉める音は確かで、開ける音はどこか不安だ。リックは鍵の重さを掌に残したまま、一度だけ振り返った。

やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第3部 店が交差点になる 第8章 慈善の甘さ】の更新予定は2/19です。

 

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