【ブログ小説】封蝋-皇后の侍女になった編集者が見た19世紀│第2章 ハンガリーの風 第6章 ブダの5月

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

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現代ウィーンで歴史雑誌の編集者として働くソフィアは、エリザベート特集の取材中、宛名が自分の名になっている未投函の手紙に触れ、十九世紀へ落ちる。

身分のない異邦人として宮廷に入り、優秀さを買われて皇后付の記録係となった彼女は、皇太后ゾフィーの支配、皇帝フランツとの溝、政治に翻弄される日々を、紙の上に正確に残していく

だが未来を知る者として、避けられない悲劇を前に、介入すべきか、寄り添うべきかが彼女を思い悩ませる。 言葉を預かり、沈黙を翻訳しながら、皇后の「幸福」の行方を追う旅の果ては、はたして――。

主な登場人物

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ソフィア・フリッツ
ウィーンの歴史雑誌編集者。ある出来事を境に、過去の宮廷と関わることになる。観察力と文章力を武器に、時代の規律の中で自分の立ち位置を探す。

▪皇后エリザベート
オーストリア皇后。自由を求める気質と、宮廷の制度のはざまで揺れる。人々の視線の中心にいながら、静かな孤独を抱える。

▪皇帝フランツ・ヨーゼフ
オーストリア皇帝。帝国の責務を背負い、秩序と務めを優先する。皇后との距離を、言葉ではなく態度で示す人物。

▪皇太后ゾフィー
皇帝の母。宮廷を牛耳る実力者。慣習と規律を重んじ、皇后のふるまいにも厳格な目を向ける。宮廷という仕組みの強さを体現する存在。

▪皇太子ルドルフ
皇太子。聡明で感受性が鋭く、周囲の大人たちの意図を見抜こうとする。物語の緊張を静かに高めていく鍵となる人物。

エレナ・ケーニッヒ
ソフィアの上司。締切と現実の厳しさを知る編集者で、仕事の規律でソフィアを支える。

シモン・ザムロック
ソフィアの先輩編集者。文章と事実の距離感に敏感で、同僚としての信頼が厚い。

ミラ・ハース
ソフィアの後輩編集者。編集部の空気を軽やかに動かす存在。

書記官長
宮廷の記録を統括する人物。記録の価値を重んじ、宮廷側の秩序を象徴する。

家政長
宮廷の運用を司る管理者。宮廷生活の現実を支える存在。

侍女頭
皇后付の侍女たちを束ねる。礼節と規律を重んじ、周囲の目を意識して動く。

主治医
宮廷の医療を担う医師。時代の常識と手順に基づき、宮廷の「当たり前」を示す存在。

▪乳母
子どもの世話を担う女性。慣習に従い、役目を果たすことを第一とする。

前回のストーリー

第2部 ハンガリーの風

第6章 ブダの5月

未解決の温度

 1857年、オーストリア皇帝夫妻がブダへ入った日の空は、低く曇っていた。丘を上がる馬車の車輪が泥を跳ね、随行の者たちの靴底に薄い土の層が重なっていく。ウィーンの宮廷で磨き上げられた秩序は、旅先ではすぐに濁りを含む。濁りは目に見える汚れだけではない。気配のざらつきとして、肌に残る。

 ハンガリーは、まだ完全に手なずけられた土地ではなかった。1848年3月、ヨーロッパ各地の革命の波に呼応して、ペシュト(現在のブダペスト周辺)でも改革要求が高まり、ハンガリー側は自治拡大や政治改革を進める一方で、帝国側との対立も深まっていた。

 やがて武力衝突が本格化し、1849年にはハンガリーが独立を宣言。オーストリア帝国軍はこれを鎮めきれず、ロシア軍の介入も受けて鎮圧、その年の8月、ハンガリーは降伏した。

 その後はオーストリア帝国による処罰と統制が強まり、ハンガリーには帝国への怨念と不信が社会にくすぶっていた。だから人々は表向きは忠誠を口にするが、その声色の奥には不満や警戒、恨みが消えないまま残っているのだ。

 そのため、皇帝夫妻の訪問は政治のかけひきそのものだった。歓迎の列と花束と音楽の背後で、ハンガリー市民は次の一手を測っている。だが、エリザベートはこの国をたいそう好んでいた。自由という言葉の匂いが、ここでは少しだけ濃く漂っている。しかしその自由の匂いは、しばしば危険と同居する。

 ハンガリーの制圧に躍起になっていた帝国では、エリザベートの美貌がハンガリーでは武器になることを知っていた。そして、それはエリザベート自身も同じだった。

腕の中で崩れゆく自由

 ハンガリーの館には、子どもたちの部屋が用意された。エリザベートは第一子ゾフィーを出産後、翌年に次女のギーゼラを出産、このときまだ幼い2人の子どもたちが帯同していたのだ。

 エリザベートは、子どもたちを自らの腕の中に返さなければ、皇帝フランツと共にハンガリーを訪れることはないと、ゾフィーに条件を突きつけた。帝国を守るため、ゾフィーはその条件を受け入れ、エリザベートは奪われた子どもたちを自らの腕の中に取り戻したのだった。

 子ども達は白く飾られた寝台に並べられ、乳母が忙しく布を替える。窓辺には色とりどりの花が飾られた。最初の2日間、子どもたちの機嫌も良く、旅の景色が珍しいのか、乳母の歌に笑い、皇后が覗くと小さな手を伸ばした。

 だが3日目の朝、長女ゾフィーは細い声で泣き続けていた。乳母は食べ過ぎだと言い、医師は旅の疲れだと言う。いつもなら皇后は言葉を飲み込む。エリザベートは長女ゾフィーの寝台へ近づき、そっと頬に触れた。

「熱い……」

 彼女は呟いた。だが、その声は届かない。

 その日の午後、今度は次女ギーゼラも腹を下した。二人とも同じ水を飲み、同じ空気を吸い、同じ布に包まれている。もちろん原因は一つではない。慣れない旅先での疲労、室内に漂う湿気、不衛生な環境、何日も替えられていない花瓶の水、そして大勢の人の出入り。

 旅先での歓迎は関わる人間を増やす。それだけ外からウィルスを持ち込む危険が多くなる。感染という言葉を、ここでは誰も使わない。ただ悪い気が回ったと言い、運が悪かったと言う。運という言葉がすべての責任をかき消してしまう。

 ソフィアは責任を探さない代わりに、段取りを作るしかなかった。部屋の入口には見舞い帳を置き、来訪者には手を洗わせた。使用する布を分け、湯を沸かし、窓を少しだけ開けて、床を拭いた。それでも子供たちの病は回復へ向かうことはなかった。次女ギーゼラは熱が出ても、まだ泣く力があり、翌日には少し回復したように見えた。

 ギーゼラの回復は人々の希望になった。だが、その希望は油断を呼ぶ。周囲は「ゾフィーもきっと同じだ」と言い始めた。長女ゾフィーも同じように回復するはずだと信じて疑わなかった。ただひとり、ソフィアだけは知っている。この目の前の小さな命の灯が、間もなくこのハンガリーの地で静かに消えてしまうことを。

 言葉にできない苦しさを抱きながら、彼女はただ、帳面に二人の子どもたちの症状の違いを記していく。泣き声の強さ。汗の質。唇の乾き。目の焦点。眠りの深さ。

静かに消える灯

 ドナウの川面は、ウィーンより少し濃い色をしていた。春の終わりの水は重く、雨上がりの湿気を抱えたまま、ゆっくりと城下を撫でて流れて行く。ブダの館は高い丘の上にあり、窓の外には川と対岸の町が広がっていた。だが眺めの良さは、部屋の空気の良さを約束してはくれない。厚い石壁は湿り気を逃がさず、夜の冷えを朝まで引きずっていた。

 随行団の動きは早朝から忙しく、人々が行き交う音が廊下に響いていた。今日も皇帝夫妻への訪問と拝謁のスケジュールは分刻みで詰まっている。革命の傷跡が残るこの国で、皇帝夫妻が姿を見せることには大きな意味がある。エリザベートの笑顔は旗を掲げるよりも大きな効果をもたらしてくれる。

 ソフィアは予定表の端に指を置き、そこから視線を赤子の部屋へ移した。小さな寝台の上で、長女ゾフィーが毛布に包まれている。頬は赤く、唇の色がいつもより薄い。眠っているのではない。疲れているのでもない。熱が体を支配するときの、あの曖昧な沈み方だ。乳母が笑って言った。

「旅の疲れですよ。子どもはこういうものです」

 ソフィアは曖昧に頷きながら帳面を開き、昨夜からの様子を短く記した。咳。下痢。食欲の落ち。泣き声の弱さ。汗の匂い。医師が持ち込んだ木箱の中には、ガラス管の古い医療器具が入っていた。体温を測るための器具に似ているが、扱う者によって意味が変わる。数値が出れば安心する者もいれば、数値が出なければ見て見ぬふりを続ける者もいる。

 エリザベートは子どもの寝台のそばに立ち、眠りに落ちた顔を覗き込んだ。

「少し、熱い気がするわ」

 皇后の声は極限まで抑えらていた。周囲には常に耳がある。小さな噂ひとつが、外交の足を引っ張るということをエリザベートは学び始めていた。ソフィアは寝台に手を伸ばし、毛布の端を整えるふりをしてゾフィの頬に軽く触れた。確かに熱があるようだった。湿気を含んだ熱が、布の内側にもこもっている。

「空気を入れ替えましょう」

 ソフィアは乳母のほうを見て言った。乳母は一瞬眉を動かし、怪訝な顔をしながら窓を指さした。

「冷気は体に毒です。夜になるとなおさら」

「今だけです。この室内の湿った空気は、もっと毒になります」

 乳母は納得はしていない様子ではあったが、窓の掛け金を外し、少しだけ窓を開けた。冷たい空気が細い線のように流れ込む。そのとき、侍女が皇后の耳元で囁いた。

「皇后陛下、支度のお時間です」

 エリザベートは寝台から視線を離し、短く頷いた。

 時間が経つにつれ、ゾフィーの呼吸はどんどん浅くなっていった。まだ泣き声は出るものの、途切れがちだ。大量の汗が出るのに、口の中は乾いている。乳母は濡らした布を額へ当て、祈りの言葉を小さく唱えた。祈りは心を整える。だが、いまは乳母の心が整ったところで、ゾフィの体の水分は戻らない。ソフィアは水差しを指した。

「沸かした湯を、冷まして。少しずつ口の中へ」

 乳母が怪訝な顔をした。子どもに水を与えるのは弱らせ、胃に水を入れれば冷える、と信じている者がいるからだ。理屈で争っている場合ではない。

「乾燥は良くない菌を繁殖させてしまいます。とにかく口を湿らせたほうがいいと思います」

 乳母は黙って湯を用意し始めた。湯気が立ち、部屋の湿気がさらに増える。ソフィアはすぐ窓の開け幅を少しだけ広げた。昼前になると再び医師が呼ばれた。彼は子どもの腹を診て、喉を見て、脈を測った。

「旅の疲れでしょう。熱はありますが、持ち直します」

 医師の声は落ち着いている。それが周囲の大人たちを安心させたが、ソフィアだけは違った。これは安心して良い状況ではない。それでも、ソフィアは医師に言い返すことはできなかった。治療に口を出せば、いち侍女である自分はこの場から排除されてしうからだ。排除されては元も子もない。ここで彼女ができることは、とにかく環境を整えることだけだけだ。

 外から持ち込まれる不衛生からの隔離、水分補給、十分な休息、清潔な環境、そして穏やかな静けさ。彼女はそれを頭の中で段取りの形に変えていく。まずは、多数の人間の部屋の出入りを止めるため、侍女頭に頼んだ。

「人がこれだけ多いのでは、ゾフィ様が安心してお休みになれません。それでは熱が下がりません」

 侍女頭は渋い顔をした。ゾフィはオーストリア帝国エリザベート皇后の子どもだ。見舞いが集まるのは当然だし、見舞いが集まること自体が政治の証でもある。だが、子どもの命がかかっている。ソフィアは躊躇せず続けた。

「見舞い帳を作ってはいかがでしょうか。名前とお言葉は私が記録いたします。入室はお一人ずつ、短く」

 侍女頭仕方がないといった表情で頷き、廊下に立つ者へ指示を出した。

 午後になると、ゾフィーの熱はさらに上がった。頬の赤みが濃くなり、目がうつろに揺れる。唇が乾いて割れ、舌が白くなる。ソフィアは医師の脇に置かれた道具箱の中にある、ガラス管の古道具を見つめた。現代で言う“体温計”らしい形をしている。

―ー検温さえしてくれれば、この状況が普通ではないことを理解してくれるのではないか。

 彼女は何度も医師に検温を求めようとするが、その度に言葉を飲み込む。そしてゾフィの刻々と迫りくる最期に向けて、目の焦点、汗の量、泣き声の高さ、腹の張り、手足の冷え、唇の色、すべてを鮮明に記録して行った。

 エリザベートが公務の合間に子どもたちの部屋へ戻ってきたとき、ソフィアは床に膝をつき、寝台のそばで布を替えていた。皇后は部屋へ入った瞬間、普通ではない空気の違いを感じ取った。人の数が減り、窓が細く開き、湯の匂いではなく石鹸の匂いがする。

「何をしたの」

 問う声には、責めよりも先に不安が色濃く滲んでいた。ソフィアは言葉を選びながら返事をした。

「ゾフィ様のために、順番を整えました。面会のお方には1名ずつ短時間にとお願いをし、手洗いを徹底し、使用する布を分け、この部屋の淀んだ空気を動かしました。こうしないと悪い気が籠もります」

 悪い気。非科学的だが、この場では有効だ。皇后は黙って頷き、寝台へ近づいた。ゾフィーの手を取ろうとして皇后の手が止まる。何かを恐れている目だった。ソフィアは胸の奥が痛んだ。

「どうぞ、触れてあげてください」

 ソフィアはエリザベートに小声で伝えた。

「いまは、母の手がいちばん安心できるはずですから」

 エリザベートは息を飲み、そっと子どもの指を握った。我が子が握り返す手の力は弱々しいが、温かい。高熱があるための温かさと、まだ命がある者の温かさが混ざっている。

夕方になると、ようやく医師は別の処置を提案した。薬草の煎じ液、腹を温める布、体を締め付ける帯、そして、祈祷。ソフィアはそれらを止めない。ただ、静けさだけは譲らない。静けさは誰の信仰も傷つけない。

「ここでは静かに。そして、定期的に空気を入れ替えましょう」

 彼女は侍女や乳母、そして廊下の者たちすべてに繰り返し伝えた。だが夜が近づくにつれ、ゾフィーの体調はさらに悪い方向へと向かっていた。ゾフィーは目を開くことさえ辛そうで、泣き声もどんどん細くなってきた。呼吸も乱れ、ときおり体が硬直したように背中が反る。熱が高すぎるときの“熱性けいれん”だ。

 ようやく医師の顔色が変わった。それまでの落ち着いた様子が一変し、言葉が短くなる。そこへ皇帝フランツが入ってきた。彼の靴音は、いつもより遅い。部屋の空気は一変し、人々が背筋を伸ばし、祈りの声が低くなる。

 彼はは寝台のそばへ進み、子どもの顔を覗き込んだ。ソフィアは彼の目の奥で何かが揺れのをたしかに感じた。だが、それを言葉にしてはならないと悟った。

「いまの状況を」

 彼は子どもの顔をじっと見たままで、医師に説明を求めた。医師はいくつかの言葉を並べようとして、途中で止まった。皇帝が求めているのは言い訳ではなく、事実だと理解したからだ。事実は残酷だ。残酷さを薄めるのは、しばしば、説明と言う名を借りた言い訳が必要になる。

 だが皇帝は事実から目を背けようとはしなかった。帝国の揺れを抑えるためには、子どもの命より優先されることがある。皇帝はその重さを背負っている。

 皇帝の側近の一人が、憔悴した表情を浮かべている皇后を、別室へ移すべきだと囁いた。弱々しいエリザベートの姿見せれば、政治に響くというのだ。ソフィアはその助言に抵抗する道具として、紙を使った。予定表だ。制度が作った紙で、制度の隙間をこじ開ける。

「皇后陛下の今夜の予定は、お子様の体調確認でございます。この通り、予定に入っています」

 さっき慌てて書き足した一行を開いて見せた。周囲の者の表情が硬くなる。すると、侍女頭がソフィアに向かって、低い声で威圧するかのように言った。

「皇后陛下はお疲れです」

 それでも、ソフィアは皇后とゾフィの残されたわずかな時間を守るために、続けた。

「ここにいてください。皇后陛下には、お子様と一緒に過ごす時間が休息にもなります」

 疲れは心の問題にされやすい。皇帝が小さく頷いた。

「今夜は、ここに」

 侍女頭は一歩下がり、エリザベートは何も言わずにゾフィを抱きかかえて椅子へ座った。その背中は不自然なくらいに真っすぐと伸びていた。ソフィアにはそれが、母として子どもを抱いているよりも前に、皇后として椅子に座っているように見えた。

 だが、その腕の中にある重さは、象徴ではない。命だ。彼女はそれを、腕の中の娘から伝わってくる熱で理解し始めていた。

 夜半、ゾフィーの息がさらに細くなって乱れ始めた。乳母が毛布を替え、司祭が祈りを捧げる。ソフィアは毛布の端を整えながら、エリザベートの腕の中の子どもへ目を向けた。小さな胸が上下する。上下の幅が小さい。ソフィアは水で唇を湿らせ、ほんの一滴ずつ与えるよう乳母へ頼んだ。乳母は迷い、医師を見た。だが、医師は頷かなかった。頷けば自分に責任が及ぶことを恐れている。

 そのときだった。ゾフィーの目が一瞬だけパッと開き、虚ろなまなざしが母の顔をとらえた。皇帝がエリザベートに抱きかかえられた子どもの手に触れると、小さな指は、すぐに力を失い、手袋の上から滑り落ちた。皇帝は白い手袋を外し、素手でもう一度子どもの小さな指先に触れる。幼いゾフィーの熱が皇帝の指へと移る。彼はそっとその指を握りしめた。

「熱が高すぎます」

 皇帝の背中越しに医師が言った。ソフィアは子を抱く皇后の肩へ毛布を掛けた。

「今夜はこのまま、一緒にいてさし上げてください」

 ソフィアが皇后の耳元で囁くと、エリザベートは頷き子どもの額へ頬を寄せた。熱が頬へ移る。

 深夜、ゾフィーの痙攣がふたたび激しく体を硬直させる。体が弓のように反り、指が開き、口が小さく開いた。泣き声にならない息が抜けていく。乳母は思わず叫びそうになり、司祭は祈りの声を強めた。医師が手を伸ばし、伸ばした手が途中で止まる。皇后の腕の中で硬直していた幼子の四肢からゆっくりと力が抜けていく。

 皇后はその姿を見つめながら、息を吸い込んだ。子を抱く手は震え、声にならない声が喉の奥からこみ上げてくる。泣くことも叫ぶことも許されない空気の中で、彼女はただ子どもを抱き締めた。皇帝は二人の姿をじっと見つめながら、司祭の祈りを聞いている。彼は何も言わなかった。言えば崩れると知っているからだ。

 司祭が小鉢を手に近づけ、洗礼の言葉を短く唱えた。医師は黙って頭を下げ、乳母が唇を噛んで目を伏せる。エリザベートは子どもの顔を見下ろし、何度も名を呼んだ。何度名を呼んだところで、ゾフィが目を開くことはない。息は戻らなかった。

 ゾフィの臨終が告げられると、エリザベートがこの現実を理解するよりも先に、次の段取りが始まる。報告、搬送、告知、弔い。そして責任の所在と噂の管理。旅程の修正も必要だった。皇帝は、ソフィアにたった一言を残し、部屋を後にした。

「記録を」

 皇帝が部屋を出ると、すぐに書記官補が呼ばれ、皇太后ゾフィーへ報告するよう命令が下る。皇帝フランツの母であり、宮廷の中枢を握る人物である。

 部屋の中には、エリザベートの囁くような呼吸と、腕の中で静かに目を閉じる長女ゾフィ、そして何もわからぬままベッドの上で手足をばたつかせている次女ギーゼラの、まるでそこだけ時間に取り残されたかのような静けさだけが残っていた。静けさが広がるほど、外の世界が遠のいてい行く。遠くなった世界に、皇后の孤独が沈む。

 やがて侍女頭が近づき、低い声で言った。

「皇后陛下、別室へ」

 言葉は丁寧だが、どこか機械的だ。エリザベートはゾフィの頬へそっと口づけをし、額へ口づけしをし、最後に指先へ口づけをして、ゾフィを静かにベッドへ寝かせた。

 時刻は深夜0時を回っていた。ソフィアは侍女たちに用意された宿舎へ戻ると、鞄に忍ばせていた紙を取り出しペン先を当てた。インクが紙に染みて広がる。彼女は震える手を反対の手で押さえながら、短くメモを残した。結末は変えられない。だが孤独の密度は変えられる。救うことができない事実の前でも、尊厳だけは守ることができるはずである、と。

 遠くの部屋からは、深夜にもまだ、小さな足音が聞こえている。誰かが次の段取りのために準備をしているのだ。帝国は止まらない。止まることが許されない帝国の前には、大切なたったひとつの小さな命が消えたことも、朝には旅程表の一行として過ぎてくのだろう。そこにはエリザベートの母としての重さは記されていない。

 ソフィアは明かりを消して、暗闇の中で目を閉じた。窓の外には朝も、昼も、夜も、そして何が起ころうとも、同じ顔を変えないままのドナウの水が流れている。だが、川が人々の失ったものを運んできてくれることはない。それでも人は、川に向かって常に手を伸ばしている。伸ばした手が空に触れるだけだとしても―ー。

封蝋-皇后の侍女になった編集者が見た19世紀│第2部 ハンガリーの風 第7章 言葉のない慰め】の更新予定は2/18です。

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