【ブログ小説】やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第4章 学校という窓

この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
 ※無断使用・転載は固くお断りいたします。

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全体のあらすじ

開く

 1932年、不況と不穏な空気がロンドンの路地裏にも染み込むなか、小さな珈琲店は今日も変わらぬ静けさを保っている。

 寡黙な店主リックは、議論で勝たず、誰かを追い出さず、ただ湯気と間合いで人の呼吸を整える。常連たちが抱える失業や怒り、上流の客が持ち込む“外では言えない用件”、そして“黒い言葉”が忍び寄る気配。

 そこへ通うクレアは、祖父が遺した癖や言葉を手掛かりに、店に漂う不思議な信用の理由へ少しずつ近づいていく。

 やがて明かされるのは、誰かを裁くための真実ではなく、沈黙が守ってきた日々の手順。階級や時代の裂け目のそばで、同じ一杯がそっと差し出される。

そんな“やさしさ”の物語。

主な登場人物

開く

リック・エヴァンス
ロンドンの路地裏で小さな珈琲店を営む高齢の店主。丁寧すぎる所作の奥に、語らずに生きてきた過去がにじむ。

クレア・コックス
リックの店に通う常連客で、落ち着いた観察眼を持つ女性。

メイベル・エヴァンス
リックの妻であり、店の土台を作った共同創設者。

▪ランドルフ・コックス
ヨークシャ地方にある地主の屋敷で執事を務める。

▪アーロン・ディクソン
ランドルフの知人で、ロンドンの資産家

前回のストーリー

第2部 育ちと窓

第4章 学校という窓

曇りを整える朝

 店の窓ガラスは、朝の冷えを抱いたまま薄く曇っていた。曇りは汚れではなく、外と内の温度差が作る一枚の膜だ。路地の石畳は夜露を吸い込み、靴音を柔らかく呑み込む。表通りから聞こえる車輪の音は遠く、ここに届くころには角の取れて柔らかい。

 扉を開けると、まず最初に古い木の匂いが鼻を通って胸に染み込んでくるへ入る。焙煎豆の甘さと、湯気の白さと、磨き上げられたカウンターの艶。どれも派手ではないが、毎朝、同じ順番でここに存在している。その同じ順番が、この店を何十年も支えてきた。

 リックはカーテンを少しだけ引き、窓辺の椅子を整えた。椅子は、置き方ひとつで人の背筋を変える。前に出しすぎれば追い立てる。引きすぎれば閉じ込める。彼はその中間を探すように、指先で木の縁を撫でてから離した。クレアは先に来て、いつもの壁際に座っていた。肩は落ち着いた様子なのに、指先だけが忙しく動いている。紙片を一枚、二枚と折り畳み、角を揃え、また開いて確かめる。本を読む手つきとは違った。読み終えて何かをしまう動きでもない。手にした紙片に書かれた文字が、彼女の今日を締めつけているようだった。

 リックは彼女を横目で見ながら、いつもの手つきで湯を沸かす。声はかけない。

「いつものを」

 クレアの注文は短い。そして砂糖壺に視線をやり、続けて言った。

「砂糖は……あとで」

 急がない言い方だった。本音も、甘さも、必要なときに足せばいいと知っている声だ。

「承知しました」

 リックは湯気の立つカップを運び、彼女の手前へ置いた。置く位置は、指先が迷わない距離。熱が落ち着くまでのわずかな時間さえ、彼女に預けてやりたいと思う距離だ。感情の温度は誤魔化せないが、確かなものがここには一つだけある。彼はそれを丁寧に差し出す。

 窓の外で、子どもの影がひとつ通り過ぎて行った。鞄を肩にかけた小さな背中だ。その後ろをすぐに別の影が続く。足元には足底の薄い靴、歩幅は寒さをこらえるように狭い。通り過ぎて行く人々の数だけ、家の事情がある。

 客の一人が窓の方に目をやり、つぶやく。

「学校へ行ける子はまだ、いい」

 隣りの連れが笑って言い返す。

「だが、文字を覚えたところで、パンにはならないさ」

 ここ数年、ロンドンの暮らしは詰まり始めていた。仕事は減り、家賃は上がり、石炭の袋は小さくなった。誰もが胸の奥で計算をしている。今日の分と、明日の分と、足りない分。掃除の仕事で生計を立てる常連客、ミセス・プリチャードが口をはさむ。

「うちの孫は、学校へ行く前に床を拭いてから出ていくよ。学校だけじゃ腹は満たせないって。仕事を覚えるのが先だってさ」

 嘆きの形をした冗談だった。冗談にしておかないと、口からこぼれた途端に泣き言になる。クレアはいつものように静かに聞いている。会話には入らない。だが、その視線は窓の外を歩く子どもの背中をずっと追っている。哀れみでもやさしさでもない、そこにあるものを、そのままに受け止めている目だ。リックはカウンターにカップを置く音を一つ静かに挟んで、口を開く。

「今朝は何時に起きました?」

 彼の問いは、この場を生活へ戻すための手綱だった。怒りや不安は少しだけ遠のき、生活が近くに戻ってくる。近くに戻れば、息が整う。

「まだ暗いうちさ」

 客の男が答えた。

「早起きしたところで、仕事があるわけじゃないけどね」

「石炭は足りてるのか?」

 連れの男が聞き返す。

「足りないなら、うちの古いのを少し分けてやろうか」

「そんなことをしたら、おまえのカミさんが大変なことになるぞ」

「たしかにね」

窓が開く代償

 入口の鈴が鳴り、見慣れない若い男が入ってきた。顔色は良いが、コートの肘の辺りが白く擦れている。長く机に向かう仕事をしているのだろう。事務員か、見習いか、男の顔には、若さだけでは覆うことのできない疲れが目の下に溜まっているのがわかる。男は席へ着く前に、窓をちらりと見た。外の子どもではない。曇りの向こうにある街を見ている目だった。

 熱い珈琲を一杯、口に含むと、男は誰に話しかけるでもなく、まっすぐ前を向いて話し始めた。

「読み書きができれば、職が選べるんです」

 男はそう言い、熱いカップを両手で包んだ。包む手つきが切実だ。希望に寄りかかりたい人間の切実な声。

「選べるのは、腹が満ちてる奴だけだ」

 隣の客が言葉を返す。

「字を覚える前に、腹を満たせってな」

「でも、腹を満たすには……」

 若い男の言葉が続きかけて、止まる。答えがない。隣で聞いていたミセス・プリチャードが、少し口を尖らせて言った。

「あたしはね、字を覚えたくて覚えたんじゃないの。覚えないと、追い立てられるから必死で覚えたのよ。通知だって何だって、読めないと怖いんだから」

 ミセス・プリチャードの“怖い”という言葉がその場の空気を突き刺した。

「だからさ、孫には学校に行けっていうの。あたしの仕事を手伝ってくれるのはありがたいし、手に職がありゃパンのひとつも買えるだろうよ。でもね、字が読めないってのは、あたしにとっちゃ怖いことなんだ」

 自分の胸に刺さった言葉を確かめるように、皆の沈黙が走る。そして客の男が苦笑いしながらその沈黙を破った。

「うちの子が学校へ行くと、家の手が足りない。洗濯も、下の子の面倒も。働く手がひとつ減るってのは、でかいんでね」

 クレアがその場の空気を変えるように、小声でつぶやいた。

「窓が開くと、風も入りますね」

 声は柔らかい。けれど、けっして甘さではない、希望という名の冷たさも知った声だ。吹き込む風は心地よさだけを運んではこない。一瞬にして家中の匂いを変えてしまうこともある。客の一人が鼻で笑った。

「風が入ったら、余計に寒いわな」

 客たちは笑い合い、会話は冗談へ逃げていく。だが、クレアの一言だけが、机の上に置き去りにされていることを、リックはそのとき感じていた。若い男がぽつりと呟く。

「学校って、結局、誰のためなんでしょうね……」

 その問いが、路地裏の小さな珈琲店の、うっすらと曇った窓ガラスの内側を小さくノックした。リックの胸の奥で、遠い記憶のが蘇る。湯気の匂いが、煤と石炭の匂いにすり替わる。スプーンがカップの縁に触れ、かすかな音がした。

 ―ー1870年。

 イングランド北部、ヨークシャの町には、朝から低く漂う煙が広がっていた。工場の煙突から吐き出される灰色が、空の下を這うように流れていく。濡れた石と煤の匂いが混じり、呼吸のたびに喉の奥がざらつく。

 若いリックは、馬車を降りて町の通りへ降り立った。エヴァンス家の領主としての仕事で来たのではない。家族のために父が手配した布の見本を受け取るためだ。彼の背後に控えたエヴァンス家の執事ランドルフは、音の少ない靴で一歩遅れて歩いた。給仕の場ではない。屋敷でもない。だが彼の整え方は変わらない。人が踏み外さないように、目立たずに支える。

 通りの外れにある小さな民家。通り沿いには勝手口と狭い台所、小さな窓がひとつ。窓からは外の工場の壁が見える。部屋の壁は赤茶け、ところどころ黒い染みが広がっていた。窓から入る光は薄い。薄い光の中で、小さな作業台で、母親の手が硬貨を並べている。

「今週はこれだけ」

 母の声は低い。声を低くするのは、希望を大きくしないためだ。希望を大きくするだけ無駄だと知っているようだった。父親は小さな椅子に腰を下ろし、帽子を膝に置いた。顔には疲れがある。疲れは怒りになりやすい。だが彼は怒らない。彼もまた、怒れば家が崩れると知っている。

「学校の話が来たよ」

「学校?」

「向こう隣の宿屋の主人が、わざわざ俺のところに言いに来た」

 宿屋の主人にとっては善意だった。だが、その善意も、すべての人々にとってそうであるとは限らない。父親はため息をつきながら続けた。

「委員会とやらができて、子どもたちを集めるそうだ。字を教える。読み書きだよ。これからは子ども達にも必要だって」

 母が硬貨を揃えたまま、顔を上げる。その瞳の奥にはわずかな希望が宿っていた。

「トミーも行けるの?」

 母親の言葉に、8歳の子どもが台所の隅で両手をぎゅっと両手を握りしめる。そして父親が少し苛立った様子で答えた。

「その間、誰が稼ぐんだ」

 それは冷たさではない。家族を守るための葛藤だった。父親にとっての未来は、今の延長でしか守れない。だが母親は、小さく抵抗する。

「字を覚えたら、この子は違う道を歩けるかもしれない」

 かもしれない。母の言葉は、希望という名の賭けだった。いちかばちかの賭けをしなければ、この家は工場の煙の中に埋もれていくだけだ。

「道なんてない」

 母親の希望を打ち消すかのように、父親は言い切った。

「あるのは、家賃と空腹だけだ」

 リックは、通りに面した民家の窓を見て立ち止まった。そこには父親、母親、そして幼い少年。黙って窓の中を見つめるリック。気配を感じた母親が、窓の外のリックに目をやる。この家族がどんな話をしていたのか、リックには分からなかったが、自分を見つめる母親の目はどこかうつろで、周辺に漂う工場の煙のなかに消えていってしまいそうな力のなさだった。

「リック様」

執事のランドルフが、背後から穏やかに声をかける。

「お時間が限られておりますので、そろそろ」

「きみが屋敷へやってきた頃、僕はあれくらいの歳だったかな。思い出すよ」

「はい、リック様は目をキラキラさせて、わたくしに丁寧にごあいさつなさいました」

「ぼくは恵まれているね」

「人の数だけ、それぞれの人生がございます」

「そうだね……」

 リックは次の言葉を見つけられないまま、立ち尽くす。ランドルフははリックの背後に立ち、目線だけで問いかけた。「助けますか」と。リックは首を横に振った。もしも、この家族が何か困っているのであれば、助けたいと思う気持ちはある。だが、助け方を間違えれば、取り返しがつかないことになることを彼は知っていた。そしてリックは、ランドルフに促され、静かにその場を後にした。

 そしてここには、現実という、日々の生活と必死で向き合う家族の人生だけが取り残されている。

「委員会からちゃんとした先生がやって来て、子どもたちに字を教えるらしい」

 父親は相変わらず、少し不機嫌そうに鼻で息を吐きながら続けた。

「先生が来たって、パンは勝手に増えやしない」

「どうするの……」

 母親がため息交じりに問いかける。

「行かせるしかないだろう。行かせなかったら、行かせなかったで、今度は罰金だとよ」

 学校が始まった。委員会からやって来た教師は若い女性だった。ミス・カーター。声は厳しいが、厳しさは責任の形だ。

「座りなさい。背をまっすぐ」

 子どもたちは一斉に椅子に座る。その中にはトミーの姿もあった。昨夜も、父親と母親は静かに言い争っていたが、とにかく今日1日だけは行っても良いと父親の許可が下りた。教室に並んだ椅子は、子どもたちの背中をまっすぐに支えている。だが、同時に、彼らを見えない鎖に縛っている道具にも見える。こうして縛られることで、学びがいくらかの形を保つのだ。ミス・カーターが黒板へ白い線を引いた。

「自分の名前を書きなさい」

 トミーは鉛筆を握った。握り方が分からず、指がつりそうになる。トミーは紙の上に、ぎこちなく線を引いた。線が曲がる。曲がった線が、少しずつ形になっていく。自分の名前が、自分の目の前に現れると、ミス・カーターが頷いた。

「よくできたわ」

 その一言が、トミーにはパンの匂いよりも甘く感じた。トミーは思わず笑みを浮かべそうになったが、堪える。なぜだか誰かに悪い気がしたからだ。隣の子は、手を止めずに紙を埋め続けている。

 教室の後ろの窓からは、見慣れた工場の煙が見えていた。学校の窓は大きく外の様子がよく見える。その分、外の現実も小さな子たちの背中に大きくのしかかる。文字の世界が広がれば広がるほど、煙の世界もはっきり見えるようになるだろう。大きな窓は、逃げ道ではなく、現実を映す鏡にもなる。

 休み時間、子どもたちはパンの欠片を分け合った。分け合う手は小さい。

「おまえ、午後は働くのか」

 ひとりの少年がトミーに尋ねた。

「うん……手伝う」

 午前の授業が終わった帰り道、トミーは通りに掲げられて言う看板を見上げながら歩いた。3つばかりの文字が読めたことに喜びがこみ上げ、胸が軽くなる。だが、軽くなった胸も、家の扉の前では少し重くたくなった。それでも夜の食卓では、ろうそくの灯りの下で、トミーは学校の話をした。経験したそのすべてが楽しくて、嬉しくて、思わず声が弾む。母は笑って聞き、父は黙って聞いていた。父親の沈黙が重い。

 そのとき、扉の下のすき間から一枚の紙が滑り込んだ。家賃の請求だ。大家が入れていったのだろう。この薄い紙一枚は、家族の空気を一気に谷底まで沈める威力を持っている。

 父は紙を手に取り、眉を寄せた。文字の列を追いかけようとして、目が止まる。止まるのは読みづらいからではない。ところどころ、読めない文字があるからだ。そんな父親を見て母親が口を開きかけて、やめた。父の誇りを折るかもしれないと知っていたから。

「読もうか?」

 トミーが思わず口を開く。気持ちが高揚していた幼い子どもの親切な声だった。だが、親切はときとして刃になることがある。刃になると知らない親切ほど、よく切れるものだ。父親の顔が固まった。そしてトミーをじっと見つめ、いつもより冷静に、そして一段と低い声で言った。

「偉くなるな」

 それは短い言葉だった。怒鳴らない冷静な低い声は、幼いトミーに大きな恐怖を与え、怯えさせる。学びという窓が開いたはずなのに、冷たい風が家の中を吹き抜けていく。その風を遮るように母親が割って入った。声は決して荒げない。ここで声を荒げれば、父親の誇りが崩れてしまう。それは、家族が崩れることを意味する。

「偉くじゃないの」

母親が静かに、そして真っすぐ父親の目を見て続けた。

「生き残るためよ」

 生き残る。その言葉が台所に吹きすさぶ空気を変えた。父の恐れも、母の希望も、同じ場所から生まれている。守りたいものがあるから、人は正しさを選び、恐れを抱える。長い沈黙が続く。父親は沈黙の中で自らの誇りと戦っていたのっだろうか。やがて視線を落としたままポツリとつぶやいた。

「半分だけだ」

 ようやくトミーの顔を見る。

「朝は学校へ行けばいい。だが、朝だけだ」

 トミーの瞳の奥にわずかな光が宿る。

「昼からは、働くんだ、いいな」

 ――

曇りに残る指跡

 湯気が戻り、店の木の匂いが鼻に触れた。窓ガラスの曇りが少し薄くなり、外の光がやわらかく差している。クレアはまだ同じ席にいた。紙片は畳まれ、膝の上の鞄にしまわれている。外の子どもの影はもうない。だが子どもの残した音は、客たちの会話の底に残っている。彼らはここでそれぞれに言葉を残し、それぞれの台所へと帰って行った。
 
 クレアはカップを持ち上げ、ゆっくりと息を吐きながら、リックに語りかける。

「学校は、窓と同じですね。閉めたままだと、息が苦しい」

 そう言って少しだけぬるくなった珈琲を口に運んだ。リックがいつもの癖で、砂糖壺の蓋を少しだけずらし、戻すと、扉の鈴が鳴り、背の低い少年が顔を覗かせた。学校帰りのような鞄を抱えている。だが靴は片方の踵がすり減り、袖口には縫い直した跡がある。少年は店の奥を見渡し、すぐに視線を落とした。ここは大人の場所だと知っている目だ。知っているから、入るのに勇気が要る。

「お水を……いただけますか」

 何とか聞き取れるような小さな声は、断られる前提であることがっわかった。リックは軽く頷き、小さなグラスに冷たすぎない水を注ぎ、少年の前に置いた。少年は礼を言い、ゆっくりとグラスの水を飲み干した。飲み終えると、鞄の紐を握り直して頭を下げる。頭を下げる角度が、誰かに教え込まれたものではなく、生活で覚えたものに見えた。

 クレアの視線が、少年の手元へ吸い寄せられる。指先にチョークの白い粉が薄く残っていた。白い粉が残るだけで、今日の一日が想像できる。少年が去ったあと、クレアは砂糖壺の蓋へ指を伸ばした。スプーンで一さじすくい、カップへ落とす。落ちる砂糖は静かで、湯気の中に溶ける。

 カップに残った珈琲を飲み終えると、クレアは静かに椅子を後ろに下げ、立ち上がった。クレアの鞄からは紙片の角が覗いている。印刷された小さな文字。面接の日時。家賃の期日。あるいは、職を探す広告。どれであっても、彼女の指先を硬くするには十分だ。クレアはそれを鞄に押し込み、表情を整えた。

「窓は、開ける日もあるし、閉める日もあります」

 リックが言うと、クレアは一度だけ頷いた。クレアは扉の前で振り返ると、いつものように、馴れ馴れしくはない、だが迷いなくいつも同じ言葉を口にする。

「ご面倒をおかけいたしました」

 リックは、これが、彼女の育ってきた環境から自然に身についた癖だと感じていた。

「差し支えなければ、また伺います」

「どうぞ」

 クレアは扉を押し、路地へ出た。曇りが晴れかけた窓の向こうで、彼女の背中が小さくなる。リックはカップを拭きながら、クレアの言葉を口の中で反復していた。

―ー差し支えなければ。

 誰かの声が、遠い屋敷の廊下から聞こえた気がした。その声は、窓を閉める前に必ず部屋の空気を整えていた。冷たさを残さず、熱を奪いすぎず。誰も傷つけない位置に、椅子と沈黙を置く声だった。だが、リックはその残響を必要以上に追うことはしない。代わりに、静かに湯気を見つめるだけだった。

 窓ガラスの曇りは、少年の肩の高さで指の跡になって残っていた。リックは布巾の端でそっと拭う。曇りは拭えば消える。だがその時には消えても、また曇る。外と内の温度差がある限り、窓はいつだって曇りのままだ。彼は一度だけ窓の外を見た。路地の石畳が薄く光り、表通りからの喧騒はここへは届かない。届かない距離が、この店の価値だった。

 彼女の窓は、どこから開いたのか。答えはまだ、湯気の向こうだーー。

やさしさの淹れ方-ロンドンの小さな珈琲店が見守った、英国の長い季節の物語│第2部 育ちと窓 第5章 正しさの匂い 】の更新予定は2/10です。

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