
この物語は、作者(Viara)がアイデアと設定を考え、AIにより作成したプロットを基に、作者とAIが協働して執筆しています。
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全体のあらすじ
恐怖政治のさなか、パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で働く青年ジャンは、地区会所に勤める父を持つ娘クレールと出会う。言葉ではなく縫い目で惹かれ合った二人の恋は、噂と視線が支配する時代の網に絡め取られていく。
クレールの父ドゥルマは、革命の任務に誇りを抱いたまま、娘を守るために“制度の内側”で恋人たちの逃走路を開く。だがその小さな例外は「平等」の名のもとに断罪され、父はすべてを背負って断頭台へ向かう。
自由とは、平等とは、そして愛とは何だったのか。答えは出ないまま、問いだけが夜明けの空に漂っていた。
主な登場人物
▪ジャン(普段名)/アルマン(真名)
パレ・ロワイヤル回廊の仕立て屋で下働きをする青年。元貴族の家系である出自を隠して暮らしている。
▪クレール
市民を取り締まる地区会所の監視係の父を持つ。秩序を信じたいが、恋によって「正しさ」の輪郭が変わっていく。
▪ドゥルマ
クレールの父。地区会所の監視係(治安担当)。任務への誇りを捨てず、家庭では厳格で寡黙。
▪ラクロワ
地区会所の同僚で急進派。正義を「例外の排除」として理解し、平等の名で人を追い詰める。
▪ルノー親方
ジャンが務める仕立て屋の親方。会所の発注と巡回の気配に怯えながらも、店と職人の矜持を手放さない。
▪ニコラ
仕立て屋の弟子。飢えと恐怖から口が先に動き、ジャンの「違い」を面白がって噂の火種を作る。
▪ブリュノー夫人
パレ・ロワイヤルの古参。過去の匂いに気づく目を持つ。
▪ガスパール
御者(馬車の車夫)で、門と荷車の流れを知りつくしている男。
▪ポワリエ夫妻
街道沿いの宿の夫婦。問いを増やさず、沈黙で匿う。
▪マドレーヌ
フランス南部の田舎町に住む縫い手。
第1部 回廊の秤
第1章 パレ・ロワイヤルの針
回廊の朝
パレ・ロワイヤルの回廊は、朝から人の足が途切れない。石の柱が連なる影の下を、濡れた靴底が擦り、乾ききらないコートがすれ違う。店の戸口から見える庭はまだ白く、柵の向こうで鳩が身をすぼめていた。
回廊の外では、荷車が軋む。物売りの声は低く、誰も長く叫ばない。大きな声は人目を呼ぶ。人目は噂を呼び、噂は瞬く間に広がって行く。張り紙に書かれた一連の文句も、剥がれた端が風に震えるたび、言葉が裏返りそうで、通る者は足を速めた。
仕立て屋の室内は、外より暗い。硝子窓のくすみが光を削り、棚の奥に積んだ反物は色を失って見える。羊毛と湿り気、古い染料の匂いが混ざり、鼻の奥が鈍くなる。朝の針仕事は静かだが、その静けさは落ち着きではない。いつ誰の声が跳ねるか分からない緊張が、空気の膜になっていた。
布は足りていない。糸も足りない。店に入ってくるのは、まともな新反ではなく、ほどいた古着の切れ端や、裏地だけ剥がしたコートの類だ。色の揃わない布をつなぎ合わせれば、縫い目が目立つ。目立てば、理由を問われる。理由を問われれば、今度は身の上まで問われる。
作業台の端で、ジャンは黙々と針を進めていた。コートの肩口は擦り切れ、裏地が口を開けている。ほこびは放っておけば広がる。放っておくわけにいかない。コートの内側の縫い目が乱れていれば、身なりの乱れとして見られる。そう見られることが、命にもつながる時代になっていた。
指先は冷え、針はわずかに重い。糸は細く切れやすい。結び目を作るたびに余りが惜しくなる。糸巻きは棚の手前から消え、代わりに短くほどいた古糸が小瓶に溜められている。ルノー親方は、糸屑さえ拾い上げるように言う。拾わなければ、次の修繕ができないからだ。
壁際で弟子のニコラが舌打ちした。コートの袖に付ける三色章の縫い直しで、色糸が足りない。赤と青はある。だが白がない。白の代わりに薄い生成りを使うか、裏地から糸を抜くか。どちらにしても、見れば分かる。
「どうするんだよ。これじゃ笑われる」
「笑われるだけなら良いが――」
ルノー親方は、顔を上げずに言った。声は低いが、そこに不思議な硬さがあった。笑いが、侮りが、やがて“疑い”に変わることを、店の者はみな知っている。疑いは噂になって道を一直線に走ったかと思うと、最後には取り締まりの地区会所へ落ちる。
会所は、パリの各地区に置かれた、住民生活と治安を一体で扱う拠点である。巡回と治安。地区の武装組織や巡回の割り当てと結びつき、外部者や「疑わしい者」を監視する実務を担っている。言ってみれば監視)側の委員会が、疑いを手順に変える窓口だ。
客が一人、戸口で足を止めた。煤けた帽子の男で、手には破れたコートを抱えている。男は縫い目のほころびを見せつけるように突き出した。
「今日中に直せ。これがなきゃ門を通れん」
ニコラが反射的に口を開きかけたが、遮るようにして親方が答える。
「順番だ。今日中は無理だ」
男の顔色が変わった。怒りと恐れが同一線上を走り抜ける。男は唾を飲み込み、声を抑えようとして抑えきれない。
「無理だと? 巡回に止められたら、どうする」
その場にいた店の者たちの肩が一斉にこわばる。巡回の名が出た瞬間、誰もが同じ景色を思い出す。門の前で列を作らされ、腕章や身分を確かめられ、証明書を差し出せと言われる景色だ。男が怒っているのは店に対してではない。自分の身を縛る目への苛立った怒りだ。
親方は男のコートに目線を落とす。布は薄く、肘の辺りに焦げ跡がある。直したところで、長くは持たないだろう。けれど男は、長く持たせたいのではない。今日という一日を無事に生きて越えたいのだ。
「……来い。昼まででいいなら、肩だけ留めてやる」
親方はそう言って、男を奥へ招いた。店の者が息を吐く。わずかな譲歩が、店の命綱になる。譲歩をしなければ客は敵になる。譲歩をしすぎれば、今度は会所の機嫌を損ねる。見えない秤が、毎朝同じ皿を揺らしていた。
ジャンはけっして口を挟まない。ただ黙々と針目を揃え、布の端を押さえ、余分な糸を切る。手つきが丁寧すぎる、と言われたことがある。丁寧は贅沢だ、とも。だが彼は、丁寧でなければ縫えないものがあることを知っていた。縫い目は、布だけではなく暮らしをつなぐ。粗い縫いは、どこかでほころび、そこから崩れてしまう。
仕立て屋に走る緊張
戸口の鈴が鳴った。回廊から冷気が一筋、店へ入り込む。ニコラが顔をしかめる。誰かが来るたびに、店は身構える。客が増えることは、同時に監視の目が増えることでもあるからだ。入ってきたのは常連ではなかった。灰色の上着に、革の袋を下げた若い男だ。袋の口から紙片がのぞき、朱の封蝋の欠片が光る。男は周囲を見回さず、まっすぐルノー親方の前に立った。
「地区(セクション)会所からの依頼だ。急ぎだ」
室内の空気が変わった。さっきまでの苛立ちが、形を変えて沈黙になる。ニコラの手が止まり、奥の職人が布を畳む手を強張らせる。ルノー親方はやっと顔を上げ、封を受け取った。指が封蝋に触れたときだけ、わずかに迷いが見えた。
「……分かった」
親方は封を割り、書面に目を通した。読み終えると、言葉少なに指示を出す。
「この仕事を先にする。腕章とコートだ。糸を出せ。奥の箱だ」
奥の箱は、最後の予備だ。誰もが知っている。そこを開けるのは、会所の名が出た時だけだった。ニコラが不満げに息を吐いた。だが反論はしない。反論すれば、“協力しない”と取られる。門の前で止められでもしたら、身なりや証明書を見られる。そして次は家まで覗かれる。生活の順番は、縫い糸よりも早く会所に結ばれている。
「さっきの客はどうする」
職人が小声で言う。親方は紙を折り、卓の下に隠した。
「後だ。会所のコートが先だ。ここで逆らえば、客の列ごと潰される」
親方の言葉は、脅しではない。計算だ。会所の発注は、店を生かしも殺しもする。店は布を縫っているようで、実際には“目”の間を縫っている。ジャンは針を置き、箱から糸を取り出した。指先に乗る白い巻き糸は、薄い光を吸って青みがかっている。
「お前、早いな」
奥の職人が、ジャンにだけ聞こえる声で言った。褒めているのか、牽制なのかは分からない。ジャンは小さく頷き、返事を省いた。返事を省く癖は、いつからか身についた。布に針が入る。糸が通る。腕章の縁を縫い直しながら、ジャンは店の外を意識した。回廊は開けている。誰の目も入る場所だ。客の目。隣の店の目。巡回の目。目が集まるところに、噂が集まる。
昼前、パレ・ロワイヤル回廊の古参、ブリュノー夫人が顔を出した。痩せた体に古い毛皮を羽織り、指先だけはしっかりしている。夫人は品物を買いに来たのではない。噂を拾いに来る。店の者はそれを知っていた。
「ルノー、針は足りてるの?」
夫人は笑いながら言う。親方は大げさに肩をすくめた。
「足りるようにするさ」
「足りるように、ね。皆そう言うわ」
夫人の視線が、作業台のジャンの手に向かった。針を引く指の動きが、わずかに整いすぎている。夫人は何も言わない。ただ、記憶の引き出しに収めるような目をした。
「新しい下働き?」
「ただの手だ」
親方が先に遮った。あまりにも遮り方が早いので、夫人は口角だけを上げ、仕方なく話題を変えた。けれど目の奥に残ったものは、消えていないようだった。
親方が一度だけ言った。
「受け取りは、会所の者が来る。手を止めるな。余計な口も閉じろ」
その言い方は、命令というより祈りだった。
そのとき、扉の鈴が再び来客を知らせる。今度はゆっくりと、控えめに。外の冷気はさっきほど荒くない。代わりに、薄い石鹸の香りが混じった。クレールは入口で立ち止まり、靴先の泥を払った。回廊の石畳は濡れている。衣服の端まで冷えが上がる。彼女は袋から一枚の紙を取り出し、胸の高さで握った。紙は硬い。硬い紙が、柔らかい暮らしを押し曲げるのを、彼女は何度も見てきた。
店の中の視線が、一斉にその娘に向けられた。その視線に温度はない。あるのは何かを計るような重さだ。“会所の人間の娘”。彼女がそう呼ばれていることを、耳の奥では知っている。彼女の父の肩書きは、盾にも刃にもなる。盾になるときは、誰も口にしない。刃になるときだけ、はっきりと響く。
「受け取りに参りました」
ルノー親方が前に出る。親方は笑わない。笑えば媚びに見えてしまう。媚びは疑いを呼ぶもとだ。親方はクレールから紙を受け取り、目を走らせる。
「会所の……」
言いかけて、親方は言葉を飲み込んだ。会所の名をむやみに口にするのは、ここでは危うい。名は呼ぶためにあるのではない。守るために、隠すものでもある。
親方は奥へ目をやり、短く指を立てた。ジャンを呼ぶ合図だった。ジャンは立ち上がり、作業台の布を整えた。立ち上がる動作が、周囲よりわずかに滑らかだと自分で気づく。気づいた瞬間、肩を固くした。固さもまた目立つ。彼は呼吸を整え、紙を見ないようにして近づいた。
クレールの唇は少し紫を帯びたように見える。寒さのせいだけではない、とジャンは思った。怖さは血の気を引かせるものだ。怖さが唇に集まるのを、彼は何度か見たことがある。
「こちらです」
ルノー親方が言い、仕上がった腕章とコートを台の上に置いた。縫い目の新しい匂いがする。ジャンは黙ってその束を持ち上げる。軽くはない。会所のエンブレムや腕章が付けば、布は重くなる。クレールは束を受け取ろうとして手を滑らせた。革が少し湿っているからなのか、緊張で汗が滲んでいたからなのかはわからない。束の端が床に触れそうになり、彼女の息が一瞬、止まりかける。
ジャンは咄嗟に両手を差し出しそれを支えたが、そのとき彼女の手袋の袖口の縫い目が裂けているのを見つけた。手袋の裾から薄い裏布がわずかに覗いていて、そこから冷気が入り込む。言葉にするのは簡単だ。「手袋がほつれている」と言えば済む。だが言葉は、ここでは余計な糸を引く。
ジャンは視線を落とし、手袋の裂け目に指先を添えた。クレールが小さく身を強ばらせる。彼女の肩が上がり、頬の筋肉が固くなる。触れられた驚きよりも、“見られる”ことへの恐れが先に立っている様子だった。ジャンは何も言わず手袋を脱ぐよう視線だけで促し、作業台の端へ手袋を引き寄せた。彼は針を手に取り、糸は余り布からほどいた細いものを選ぶ。色は手袋の縁に溶ける。結び目を小さく作り、裂けた縫い目を丁寧に拾う。針が革を抜ける音は小さい。
クレールは静かに息を吐いた。自分でも気づかないほど細い息だった。肩の力が少しばかり抜けて、視線が揺れる。怖さが少しだけ形を変えていくのを感じる。彼女は、針の動きをじっと見つめていた。機械仕事ではない針仕事には意思が宿っている。“人のために整える”という意思が――。
ジャンは縫い終えると、糸を切り、余りを指で押し込んだ。革の縁が元の線を取り戻す。縫い目は目立たない。目立たないことが、今は価値になる。彼はクレールに手袋をそっと返した。手のひらを開いたまま、相手に差し出す。指が触れない距離を選ぶ。触れれば簡単に温度が移り、それは人の記憶になる。記憶はいずれ誰かの口に乗ってどこか手の届かない“恐怖”の元へと飛んで行くだろう。
クレールは手袋を受け取り、整えられた縫い目をしばらくじっと見つめていた。縫い目の線が、まっすぐだ。自分が今まで何度も見てきた粗い縫いとは違う。家で父が縫い直した靴紐の跡とも違う。生活のための縫いとは別の、なにか慎み深い整いがそこにある。
「……ありがとうございます」
彼女はそう言ってから、すぐに口を閉じた。続ければ、名前を聞きたくなる。名前は、ここでは刃に触れる。そのとき、ルノー親方が軽く咳払いをした。店の空気が元に戻る合図だった。クレールは束を抱え、頭を下げる。
「では、失礼いたします」
戸口へ向かう彼女の背に、視線が刺さる。刺さるのは彼女だけではない。刺す側の者もまた、刺した視線の重さを引き受けている。疑いを持つことは、安全のための技術になっていた。クレールが扉を出る直前、ジャンは小さく口を開いた。声は自分の耳にしか届かないほど低い。
「夕刻、会所の前で。追加を渡します」
言葉は短い。余分な言い回しは、余分な糸を生む。クレールは一瞬だけ足を止めた。振り返るのは危険だ。彼女は振り返らず、首だけわずかに動かして頷いた。頷きもまた、目立ちにくい約束だ。
扉が閉まると、室内の空気がまた沈んだ。
はじまりの足音
ニコラが鼻で笑い、誰にともなく言った。
「会所の娘に、針をやるとはな」
ルノー親方が視線を投げた。鋭いというより、その先の言葉の暴走を止めるための沈黙だった。ニコラはその場の空気を感じ取ったのか、肩をすくめ、布に視線を戻す。縫い直した腕章を束ねながら、ニコラが低い声で言った。誰に向けたとも言えない声だが、針の音よりはわずかに大きい。
「会所の連中ってのは、何でも持ってる。布も糸も、札も。あの娘に近づけば、こっちも楽になるかもな」
職人が咳払いをした。咳払いには二つの意味がある。話題を終わらせる意味と、聞いているぞという意味だ。ニコラはふたたび肩をすくめ、今度は直接ジャンを見た。
「お前、手が綺麗だ。針も上手い。どこで覚えた?」
ジャンは針を止めないまま答えた。
「ここで」
答えが短いほど、追い詰める者は面白がる。ニコラの口元が歪んだ。
「ここで、ね。妙に丁寧だよな。貴族の仕立てみたいにさ」
その言葉に、店の空気がさらに冷えてゆく。貴族という響きはいっそうの噂を呼ぶ。ひとたびその噂が会所へ落れば、二度と戻らない。
ルノー親方が、布を畳む手を止めずに言った。
「針を動かせ。口を動かすな。口は縫えん」
ニコラは舌を鳴らしたが、この場は親方に従うことにした。だが、目の奥に残った好奇心は消えない。人は恐れを抱えたまま、退屈するのを嫌うものだ。そしてここでの噂は、誰かの命と引き換えに手に入る通貨にもなり得る。
会所からの発注は店の時間を奪い、他の客の時間も奪う。昼までに肩を留めると言われた男は、黙って椅子に座り続けている。コートを抱えたままの背中が小さく揺れている。祈っているのか、怒りを抑えているのかは分からない。ただ、背中からは同じ匂いがする。恐れの匂いだ。ジャンは針を進め、縫い目を隠す位置を選ぶ。見えない場所だからこそ正確でなければならない。見える縫いは誤魔化せるが、見えない縫いは、誤魔化すとすぐに裂けてしまう。
夕方が近づくころ、親方は束を二つに分けた。先に会所へ渡した分とは別に、急ぎで縫い直した腕章がある。巡回に回る者は、明日の朝にはそれを腕に付けるのだろう。腕章がある者は通れる。腕章がない者は止められる。布切れ一枚が、通行の可否を決める。
「ジャン、これを持っていけ。俺は店を離れられん」
親方はそう言って、包みを渡した。布包みは軽くない。節約のために二重の布を使わず、糸もほどけばすぐに歪むような結びだった。
「いいか。会所では余計な口を利くな。聞かれても、ただの下働きだと言え」
親方は、視線を上げずに言った。ジャンは頷き、包みを抱えた。回廊へ出ると、空は薄紫に染まっていた。石柱の影が長く伸び、通る人々の顔に陰を落とす。店の前を通り過ぎる者は、誰もが急いでいるように見える。だが実際に急いでいるのではない。立ち止まる理由がないように見せたいのだ。
会所へ向かう道は、自然に人の流れと重なった。どの路地も、最後は同じ場所へ集まる。パンの札を握る手。配られる紙を待つ目。呼び出しを恐れる背中。人は会所の前で、互いの呼吸を避けるように並ぶ。建物は、けして豪華ではない。だが近づくほど大きく見える。扉の前には、掲示板があり、紙が幾重にも貼られている。剥がれた紙の下から古い文字が覗き、古い正しさが新しい正しさに塗り替えられていくようだった。
入口の脇に、巡回の男が二人立っていた。腕章は新しい。布の角が立ち、縫い目がまだ硬い。縫い目が硬いほど、威圧感はより強く感じさせるものだ。男たちは笑わない。笑いは油断に見えるからだろうか。ここでは油断することも罪に近い。
ジャンは包みを抱えたまま列の端をすり抜け、会所の窓口へ向かった。窓口の前にも列がある。列は怒りを溜め、溜めた怒りは、どこへも行けずに人の目に溜まる。会所の壁際で、列が小さく波打つ。誰かが身を押し合い、息が荒くなる。前の方で女の声が震えていた。
「札がないなら下がれ」
男の声が返す。列に並ぶ者は皆、同じ札を握っている。握っていない者が目につけば、正しさを示したくなる。正しさはこの場所で、唯一の盾になるのだ。女は幼い子を抱えていた。子の頬は赤く、口元に乾いた粉がついている。女は紙切れを差し出したが、札ではない。折れ曲がった呼び出しの紙だ。窓口の男がそれを手で払い、巡回の男が温度のない声で言い放つ。
「札を持って来い」
女は唇を噛み、周囲を見回した。後ろに並んでいた男は苛立ちを隠さず、肩で女を押した。
「俺たちは朝から並んでる。会所に泣きつくなら、順番を守れ」
女の腕の子が泣き声を上げた。泣き声に反応して、巡回の男が更に一歩近づく。すると、列の端からクレールが女の前へ出た。出ること自体が目立つのに、彼女は歩幅を小さく保ち、声を低くした。
「こちらへ。あの隅で話をしましょう」
窓口を任された男の目が泳ぐ。規則に反することへの戸惑いと恐怖。クレールは、窓口の男に何やら紙の束を見せ、短く付け加えた。
「委員会へ回します。列は動かしてください」
言葉は命令ではない。手順の提案だ。手順の形を取れば、誰も反論しない。巡回の男も足を止めて様子をうかがっていたが、やがて列は動き出し、怒りは別の場所へと押し込まれていった。押し込まれた怒りがいつか溢れることをクレールも知っていたが、今は、溢れさせてはいけない。
女は泣きそうな目で頷き、子を抱え直してクレールに従った。クレールは女の耳元で何かを囁き、女の手から紙を受け取った。偶然その様子を見ていたジャンは、思わず息をのみ込む。会所の者は冷たいと店では言われる。けれど目の前の娘は、冷たく見える手順の中で、人を振り落とさないために自らのリスクを顧みず行動している。縫い目のように目立たず、しかし確実に。
「次」
窓口の声が言う。声は人の声だが、まるで機械のように平坦な声に聞こえる。窓口の男にジャンが書類を差し出すと、窓口の男は、せわしなく手を動かしながら書類を確かめる。忙しさはときとして人から情を奪っていくものだが、ここでは薄い情はむしろ安全の証でもあった。
「受取は?」
窓口の男がぶっきらぼうに、納品手続きに必要な“受取証”に記載する名を尋ねてきたので、ジャンが短く答える。
「仕立て屋、ルノーの名で」
窓口の男は紙に印を押し、ペンを走らせた。ここでは紙一枚で人の暮らしが変わることをジャンは知っている。紙一枚で人が消えることも――。
窓口の男から紙を受け取ったジャンは、そのとき背後に自分を見ている視線を感じた。列を作っている人々の視線ではない。背後からまっすぐに刺さる一本の線だ。だがジャンは振り向かない。振り向けば、その線が確かなものになる。そして、次は名を問われるだろう。
「……あなた」
小さく、だが確かに聞き覚えのある声だ。ほのかな石鹸の香りが近づく。ジャンがようやく振り返ると、クレールが会所の壁際に立っていた。ひと仕事を終えた者の顔ではなく、まだ何かを抱えている顔をしている。彼女の手に握られた紙の束は少し角が折れていた。握りすぎたのだろう。ジャンは窓口を離れ、クレールの方へと歩み寄った。
「お待たせしました」
「追加、というのは……」
クレールにはその続きの言葉があるようだったが、すべてを言い切らずに視線を落とした。彼女はこの会所の空気を知っている。ここでは、どんな小さな言葉もすぐに拾われてしまう。ジャンは手に持っていた包みの中から腕章を一つだけ取り出し、縁の縫い目だけが見える程度に小さく広げ、彼女に見せた。縫い目は整っている。
「これで全部です。証明の紙もここに」
彼はさっき受付で発行されたばかりの紙を差し出した。クレールはその紙を受け取り、折り目の位置を整えた。
「……今朝の手袋」
クレールが周囲の反応を気にしながら、小さな声で囁く。隣の男がちらりとこちらを見た。彼女はすぐに話すのをやめて、口元をぎゅっと結んだ。結んだ口は、泣きそうにも見えるし、怒りそうにも見える。どちらだとしても、いま、この場所でその感情を出させるわけにはいかない。
ジャンは返事の代わりに、小さく頷いた。彼は、ほつれた手袋に、ひと針分だけ余分に入れてしまった“感情”という縫い目の、柔らかい感触が指先に残っているのを感じていた。
「会所の前で会うのは、危ないわ」
クレールが、唇を動かし声にならない声で言う。会所の周辺には治安を維持するという大義を掲げてた巡回が、あちらこちらにうろついている。フランスの心臓部であるパリは厳しく監視される運命にある。ジャンは周囲の人の肩越しに、少し離れた先にある門の方向を見た。パリの境界にある関所のようなもので、夜になれば閉ざされる。門の前には巡回が立ち、行き来する人々を鋭い目で追い続けている。統制をはかっているのだ。
「……でも、ここしか、確実に会える場所がない」
彼はそう言って彼女をじっと見た。クレールは、わずかに目を伏せ、表情を隠す。
「あなたは……」
クレールは何かを言いかけたが、やはり途中で言葉を飲み込む。彼女はジャンに名を尋ねようとしていた。しかし名を尋ねれば、相手の領域に踏み込んでしまうことになる。公安の委員である父を持つ彼女にとって、彼を予期せぬ渦の中に巻き込んでしまうかも知れないという不安と恐れが、出しかけた言葉をつまらせる。
「わたしは、ジャンと言います」
彼女の言葉の奥を見透かしたかのように、ジャンは自分の名を告げる。クレールは驚いたように目を少し見開いたが、それでも静かにジャンの瞳を見つめて頷いた。会所の窓口へ続く列は、動きを早めながら、相変わらず誰かが怒鳴り、すぐに抑えられを繰り返している。窓口の機械的な声が「次」と繰り返す。ここでは機械と会話できない者は、取り残されていく運命だ。
「では」
クレールは最後に一言だけそう言い残し、手に持った紙の束とジャンから受け取った包みを抱え直したあと、列の向こう側の人波に消えていった。ジャンはその背中を黙って見送ると、会所前のごった返している人並みを背に、パレ・ロワイヤル回廊への道を急いだ。夕暮れの石畳は冷え、足元から響く音は乾いている。腕に抱えていた包みは軽くなっているのに、胸の奥はなぜだかとても重い。その重さの正体は何なのかー―。
パレ・ロワイヤル回廊の柱の影が視界に入った瞬間、彼はふと我に返り、条件反射で自分の歩き方を整えた。速すぎないか。遅すぎはしないか。肩の位置は。視線は。ここでは、いつも誰かに監視されている気がしていた。目に見えることのない秤は、会所だけに吊るされているのではない。人の目の数だけ、パリのそこら中、どこにでも吊るされていて、常に何かを量られているような息苦しさだった。店へ戻れば、また針を持つ。縫い目を揃え、結び目を隠す。名を隠すのと同じように。隠しても、そこにあるものが決して消えることはない。ならば、その縫い目がほどけないようにしっかりと縫っておくしかない。
ジャンは店の入り口に下げられた鈴を鳴らし、暗い室内へ入った。ルノー親方が顔を上げ、何も聞かずにただ頷く。ジャンにとってはこの沈黙がありがたい。だが、その沈黙の有難みを噛みしめる間もなく、ニコラが声をかけてくる。
「会所はどうだった?女の子はいたか?」
布切れを握ったままこちらを見た。言葉は冗談の形をしているが、夕方の薄暗がりの中で、目だけが鋭く光っていた。
「残りの品はお届けしました」
ジャンは二コラを見ることなく、親方にそう告げた。
「ふうん。それだけねぇ……」
ニコラが皮肉めいた口調で笑いかける。口が開けば言葉が自然に転がり始める。いちど転がり始めた言葉は、いずれどこかで誰かに拾われるだろう。ここでは沈黙が身を守ることをジャンは知っていた。ルノー親方が視線だけでニコラを黙らせると、ニコラは面白くないといった風に軽く舌打ちをした。
ジャンは作業台に向かう前、一度だけ自らの指先を握りしめた。会所の前でのクレールとの短いやり取りが頭の中から離れない。彼は針箱の蓋を開け、針を一本、指で弾いて揃えた。針の揃う音が、静かな決意のように響く。
会所の石壁の冷たさ、列の人々の荒々しい息づかい、クレールの手袋に残った細い縫い目、まっすぐな瞳、そのすべてがジャンの指先に感覚として宿り、糸より細い線で胸の奥底へつながっているような感覚だった。
外では回廊の灯が一つずつ消え、いたるところで扉を閉める鍵の音が響く。そしてパリの門も閉じられる。門が閉じれば、街は一枚の布のように張り詰め“裂け目”を探す人々の目がいっそう増える。彼は針を置き、掌を見た。掌のしわは、縫い目に似ている。そして、どれを辿れば、生き延びる道に行き着くのか。いつまでも答えは出ない。けれど針を持つ限り、線は引き直せる。そう自分に言い聞かせ、ランプの灯を落とす。
そしてまた、誰にもわからない新しい1日が始まるー―。
【ブログ小説】見えない秤-夜明けのパレ・ロワイヤル│第2章 父の家、父の顔】の更新予定は2/5です。


