【花組】「平清盛(きよもり)」ってどんな人?蒼月抄-平家終焉の契り-

平安末期、武家として初めて太政大臣に上り、公家権力の中枢を掌握したのが平清盛です。

日宋貿易の推進や大輪田泊の整備で経済・海運を押し上げ、院政下の人事と財政を実効支配しました。

一方、鹿ケ谷事件や強訴勢力への強硬策、治承三年の政変と福原遷都は反発を招き、治天と貴族・宗教・地方武士の利害対立を激化させます。

栄華と反動の二面性を併せ持つ清盛像は、のちの平家滅亡と「盛者必衰」の語りの起点として読むべき中核テーマです。

平清盛の生涯

平清盛は平安末期を代表する武将で、平氏政権を築いた人物です。

父は平忠盛。

1156年の保元の乱では後白河天皇方に味方して勝利し、1160年の平治の乱でも源氏勢を制して武家の頂点へ進みました。

人事と財政を掌握し、公家社会の中枢に食い込みます。

1167年には武士として初めて太政大臣に就任し、武家の政治参加を一気に現実のものにしました。

瀬戸内海の要衝を押さえ、福原(神戸)や博多を拠点に日宋貿易を推進して富を蓄えたことも大きな強みです。宋銭や先進工芸品の流入は経済の活性化を促し、清盛の権威を支えました。

娘の徳子(建礼門院)は高倉天皇に入内し、安徳天皇の生母となります。

1180年には福原遷都を断行しますが、反発と動揺を招き、以仁王の令旨に呼応した源氏の蜂起へとつながりました。

治承・寿永の乱が全国に拡大する中、清盛は1181年に病没。壮大な計画と海運・交易のビジョンを持った政治家でありながら、その急進性が内外の反発を呼び、没後に平家一門は急速に劣勢へ傾きました。

日宋貿易の拡大や太政大臣就任は、武家の台頭と社会変化の象徴として後世に強い印象を残しています。

平清盛の性格

実務感覚に優れ、決断が速い指導者でした。

公家社会との折衝にも長け、武家でありながら朝廷の制度や人事を巧みに動かすバランス感覚を持っていました。

海運・貿易への視野が広く、国内政治を経済と接続して考える現実主義者でもあります。

平清盛が成し遂げたこと

保元・平治の乱で台頭

保元(1156)・平治(1160)で清盛は後白河院方として勝利を収め、源氏を退けて主導権を握りました。

戦後は恩賞配分と人事で発言力を強め、検非違使別当など要職を歴任。

院政の実務を掌握し、武家台頭の土台を固めます。

太政大臣就任(1167)

清盛は1167年、武士として初めて太政大臣に昇進しました。

公家の最上位に武家が到達した意味は大きく、以後の武家政権への道筋を示します。

形式だけでなく人事・財政・軍事の実権を結びつけ、権力構造の転換を可視化しました。

日宋貿易の推進

瀬戸内の制海権を確立し、厳島・博多を軸に日宋貿易を拡大しました。

宋銭の流通を進め、陶磁器・絹織物・技術の流入で市場を活性化。

関所や港湾の整備も伴い、財政基盤を厚くしました。海運と交易を国家運営に直結させた点が特色です。

縁戚政策

娘の徳子を高倉天皇に入内させ、安徳天皇の外祖父として外戚の地位を得ました。

これにより院・朝廷と平氏の結節が強化され、人事や儀礼で影響力が拡大します。

公武のネットワークを縦横に活用し、一門の権勢を安定させる戦略でした。

平清盛の有名な逸話

福原遷都(1180)

最も知られる逸話は福原遷都です。

清盛は瀬戸内の海運と日宋貿易を国家の柱に据えるため、1180年に都を福原(神戸)へ移しました。

海に開いた港湾都市を首都とし、交易で国を富ませる発想でしたが、公家・寺社の反発と政情不安で短期撤回となります。

大胆な構想と政治的孤立が同時に表れた出来事として語り継がれます。

厳島信仰との結びつき

厳島神社は、清盛がとくに崇敬した社で、一門の威信を示す「海の守護神」と位置づけられました。

1168年ごろの大規模な造営・整備を主導し、回廊や社殿を荘厳に整えます。

日宋貿易と瀬戸内海運の安全を祈る祭祀や寄進も重ね、海上交通と信仰を結び付けました。

神威と海の繁栄を一体化させた点に清盛の政治的構想が表れます。

平清盛の最期

治承・寿永の乱が拡大する最中の治承5年(1181)、清盛は熱病に倒れました。

場所は摂津国の福原周辺とされ、政権の要であった彼の急病は一門にとって致命的でした。

遷都で揺れた政局の立て直し、以仁王の令旨に呼応した源氏の蜂起への対処、院や公家との関係調整など、未解決の課題を多く残したまま病状は悪化し、同年に没します。

最期に当たり、宗盛を中心に一門の結束を保つよう遺命したと伝わりますが、清盛が握っていた人事・財政・軍事の「三つの手綱」は急速に緩みました。

九州・西国の拠点化と日宋貿易の継続という構想は継承されつつも指導力は低下し、やがて主導権は源氏側へ傾きます。

清盛の死は、平氏政権の実質的な終わりの合図となり、歴史は壇ノ浦の結末へ向けて一気に転がっていきました。

平清盛の年表

1118年頃

誕生(0歳)

父は平忠盛、母は祇園女御所縁とされる。
(出自には異説あり)

1129年頃

鳥羽院政期(12歳)

父・忠盛が院近臣として台頭、家門の基礎を固める。

1135–1140頃

保延期(18-23歳)

元服・昇進を重ねる(細部に異同)。
家門の実務を担い始める。

1153年

父・忠盛死去(36歳)

清盛が平家棟梁となり、一門の指揮権を継承。

1156年

保元の乱(39歳)

後白河院方として勝利。
戦後論功で昇進、武門の代表格へ。

1158年

後白河上皇の院政下(41歳)

政務に関与を深める。
検非違使別当など歴任。

1160年

平治の乱(43歳)

源義朝らを制圧。
以後、政務・軍事・財政を一体運用。

1161–1166年

瀬戸内の海上交通を掌握(44ー49歳)

日宋貿易の拡大を主導し財政基盤を強化。

1167年

太政大臣就任

武士としては初の太政大臣に就任。
まもなく辞任するが、権威づけに成功。

1168年

厳島神社の大規模造営(51歳)

造営計画を主導し、海運・信仰と平家威信を結びつける。

1169-1170年

人事網拡張(52ー53歳)

院・公家との縁戚・人事網を拡張し、一門要職へ配置を進める。

1171年

徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内(54歳)

外戚化で朝廷への影響力を確立。

1177年

鹿ケ谷の陰謀を摘発(60歳)

院近臣らを流罪・処断し、反対勢力を抑え込む。

1178年

安徳天皇誕生(61歳)

外祖父として外戚権力を強化。

1179年

治承三年の政変(62歳)

クーデター的に政権掌握。
後白河院を院御所に幽閉、反清盛人脈を排除。

1180年春

源氏蜂起が本格化(63歳)

以仁王の令旨が流布し、源氏蜂起が本格化。
全国で戦火が拡大。

1180年6-7月

安徳天皇即位(63歳)

平家の外戚体制が完成。

1180夏秋

福原遷都を断行(63歳)

海上交易中心の国造りを構想するも、反発で短期撤回。

1180冬-1181初

西国拠点化を推進(63-64歳)

平家の外戚体制が完成。

1181年2月頃

病没(熱病)(64歳)

清盛の死を境に平家は急速に主導権を失い、戦局は源氏優位へ傾斜。

【補足】

  • 出生年は1118年説が通説ですが、史料により幅があります。
  • 太政大臣は就任後まもなく辞任するものの、「武士が到達した最高位」という象徴性は決定的でした。
  • 経済面では、瀬戸内制海権+日宋貿易の組み合わせで、国家財政と流通を直結させた点が清盛の独自性です。
  • 政治面では、縁戚政策・人事掌握・治承三年の政変により、公武の権力構造を塗り替えました。

まとめ

この時代に64歳まで生きたというのも何気にすごい。

戦死でもなく疫病で命を落としたといいますから、もしも病にかからなければ、あるいは80歳くらいまで生きていたかも知れないですね。

そうなると、平家の栄華はもっと続いたんだろうか、、、。

武家として初めて太政大臣の座につき、その天性の武才を全うした人生。

武家の政治参加の礎となり、平家の繁栄をもたらした平清盛。

『蒼月抄-平家終焉の契り-』は、その息子たちの物語です。

父が築き上げた栄華と、父なき後の衰退、、、

舞台がどんな歴史を描き出すのか楽しみです!

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