【花組】明子(治部卿局)ってどんな人?蒼月抄-平家終焉の契り-

明子(治部卿局)は、平知盛の正室と伝えられ、守貞親王(のち後高倉院)の乳母として宮廷ネットワークの要を担った女房です。

1183年の都落ち局面では幼い親王の移動に関与し、平家政権と院政の接点で実務を支えました。

舞台や映像では「月」「予言」「契り」などの象徴が付与されがちですが、史実の核はあくまで家政と養育という制度的役割にあります。

出自や子女名に異説が残る点は注記しつつ、平家の栄枯を内側から見届けた証人として位置づけます。

明子(治部卿局)の生涯

明子は「治部卿局」と呼ばれた女房で、平知盛の正室として知られます。

所生の子に知章・知忠らがあり、さらに王権との縁も深い女性でした。

とくに重要なのが、高倉天皇の第二皇子・守貞親王(のちの後鳥羽天皇)の乳母を務めたことです。

親王の幼少期に近侍し、都落ちや帰京の動乱期にも育成に関わりました。

壇ノ浦後に平家一門が滅亡してからも、彼女は親王の側近として働き続けたと伝わります。

出自には諸説がありますが、宮中女房としての才覚と人脈を備え、一門の内助のみならず、幼帝・皇子の養育を通じて院政期の王権運営にも間接的な役割を果たしました。

戦場で名を上げた平氏の男性たちとは異なる形で、宮廷社会の内部から激動の時代を支えた存在です。

長寿を全うしたとされ、その経歴は『平家物語』周辺の伝承でもしばしば言及されます。

明子の性格

明子(治部卿局)は、宮中実務に精通し、礼法と機転を兼ね備えた女房でした。

乳母として幼い皇子に寄り添う包摂力があり、混乱期でも沈着に職務を優先した人で、周囲の利害を調整する折衝力や、場に応じて前に出すぎない慎み深さも特徴です。

記録は断片的ながら、近侍・養育・儀礼運営を粘り強く支える「見えない基盤」の役割を担い、王権の日常を安定させました。

明子が成し遂げたこと

明子(治部卿局)は、後鳥羽天皇(幼名:守貞親王)の乳母の一人として名が挙がり、幼少期の近侍と養育に関わったと伝えられます。

中世の宮廷では複数乳母制が一般的で、明子はその一角を担い、日々の身の回りの世話だけでなく、礼法や言葉遣い、儀礼の所作を通じて基礎的な教育を支えました。

また、彼女は平家一門と近縁であり、清盛政権下の人脈に連なります。

これにより、王権(院・天皇)と平家のあいだで情報や儀礼の調整役を務め、動乱期にも実務を途切れさせませんでした。

記録は断片的で同名異人の可能性も指摘されますが、宮中女房としての礼節と機転、そして安定した奉仕が評価の核です。

つまり、明子は軍事や政治の表舞台ではなく、王権の日常を維持する「見えない基盤」として、乳母と女房の二重の役割で時代を支えた人物だと理解できます。

明子の有名な逸話

都落ち前後の奉仕

『平家物語』では、治部卿局・明子は遷都(福原)や都落ちの混乱の中でも、幼い守貞親王(のちの後鳥羽天皇)のそばを離れず、衣食や就寝、朝夕の拝礼といった日常の作法を整え、移動時の身支度や供回りの調整まで支えた女房として語られます。

逃避行に近い状況でも礼法と安全を両立させた点が強調されます。

ただし、どの場面まで関与したかは史料で差があり、物語特有の脚色も混じります。

要するに「動乱期でも幼い皇子の生活と儀礼を守った近侍」という像が核です。

明子(治部卿局)の最期

治部卿局・明子の没年や最期の状況は、一次史料が乏しく確定できません。

『平家物語』系統や後世の記録では、彼女は守貞親王(のちの後鳥羽天皇)の乳母として知られ、都落ちや帰京の動乱期にも皇子の近侍を務めた女房と描かれます。

壇ノ浦後、平家一門が滅んだのちも宮中に留まり、皇子の成長に伴って出家・隠棲した、あるいは職掌を縮小して静かに余生を送った、といった伝承が併存します。

ただし、具体的な年次・場所・葬送の詳細は記録が断片的で、同名異人の混同の可能性も否定できません。

確かなのは、彼女の名が「混乱の時代にも職務を果たした乳母・女房」として記憶され、軍事の表舞台とは別の回路から王権と日常を支えた女性として伝わったことです。

学術的には慎重な扱いが求められる領域のようです。

明子の年表

1152年頃

誕生(0歳)

武藤頼兼の娘、実名は明子
のちに「治部卿局」と称されます。

1167年頃

平知盛の正室となる(15歳)

平知盛もまた15歳で、同年代婚とされている。

1169年

長男を出産(18歳)

長男平知章を出産。

1179年

守貞親王の乳母となる(27歳)

守貞親王(のちの後鳥羽天皇)の乳母に任ぜられ、夫・知盛とともに自邸で養育を担う。

1180年

内乱が本格化(28歳)

これ以後、親王近侍の女房として実務に当たるようになる。

1183年7月

平氏都落ち(32歳)

守貞親王を伴って同行。
親王は皇太子格として西国へ移された。

1184年2月

長男、知章が戦死(32歳)

長男・知章が一ノ谷合戦で戦死。

1185年3月24日

壇ノ浦の戦い(33歳)

夫・平知盛が入水自害。
平氏滅亡後、明子は生存し都へ帰還する。

1185年以降

上西門院(統子内親王)に出仕

守貞親王(後鳥羽天皇)に関わる女房として仕える。
琵琶を藤原孝道に学び名手となった旨の伝承あり。

1196年6月

次男・知忠が謀反の嫌疑で処刑(44歳)

身元を確かめるために首が明子の前に運ばれ、明子は涙ながらにそれがわが子だと認めた。

1221年

後堀河天皇(69歳)

承久の乱後、後堀河天皇が即位。
守貞親王は後高倉院として院政を行い、明子は後高倉院と北白河院を支える立場として再び注目される。

1231年

死去(80歳)

長命の女房として波乱の時代を生き抜いた。

【補足】

「治部卿局」は官職名に由来する女房名で、同名異人の混同に注意が必要です。

ここでは日本語版百科の叙述(出自・婚姻・乳母任官・事後の動向)を参考にしています。

また、明子の生涯(特に晩年)には諸説あり、同名の他人の話が混同されている可能性もあるようなので、年表は参考程度にご覧ください。

まとめ

明子さん、逞しい女性だったようですね。

平知盛さんの側室として迎え入れられたとき、お互いに15歳同士というのは意外でした。

勝手なイメージですが、男性側はもっと年齢が上のイメージがあります。

ただ、確かに知盛も若くして(33歳)入水自害していることを考えると、婚姻時にさほど「おじさん」であったわけもなく。(笑)

ところで、舞台のあらすじには、明子が「花山院藤原家の娘」と書かれていますが、これは創作のようです。

ざっくり調べた限り、知盛の正室「明子」は「武藤頼兼の娘」というのが通説であり、花山院藤原を出自とする記述はありませんでした。

この辺りが歴史ものを見るときの難しさですね。

なんにせよ、あの時代に80歳まで生きた女性!!

それだけでスゴイ。(笑)

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